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信長は、右大臣ですけど?この人は、室町幕府の役職だけですよ。天下人ではない。右大臣=朝廷の最高行政機関です。
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== 人物・逸話 ==
{{複数の問題
*義興は公家のような人物だったといわれる。だからといって軟弱な人物ではなく、その生涯を戦陣の中で過ごした英雄である。むしろ、自らを公家のように振舞うことで、京都の戦火を逃れてやってくる公家を山口に迎えて朝廷とのパイプを作り、さらに京都文化を山口で開花させて、山口文化(大内文化)を創出させて領国を「西の小京都」と呼ばれるまでに繁栄させるなど、大内氏の全盛期を築き上げた人物である。
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*大内義興は上洛後に管領代・山城守護に任じられたものの、管領代の職掌については不明である(実際には任命されていないとする説もある)。ただし、京都における足利義稙-細川高国体制を支えたのは義興の軍事的支援によるところが大きく、将軍である義稙も義興による政治的な[[口入]](執申)を拒むことは出来ず、更に義稙を通じて朝廷や寺社にまで影響を及ぼしたという点では管領に匹敵する政治力を有していた(これは[[足利義晴]]期の管領代・近江守護の[[六角定頼]]と共通している)。
| 出典の明記 = 2011年10月
*上洛を果たしていながら、後の織田信長のように畿内で確固たる地盤を築き上げなかった理由は、領国の周防が京都から遠隔地すぎたこと、大内氏自体が国人の盟主的存在という構造的問題などがあったためと思われる。こうした事情を汲んだ足利義稙は義興は山城守護に任じて同国を拠点に充てようとしたが、かつての[[山城国一揆]]でも見られたように山城[[国衆]]は細川氏の強い影響下にあり、統治は順調には行かなかった。そのため、義興の天下人としての君臨は畿内にいた期間に限られていた。
| 大言壮語 = 2011年10月
| 独自研究 = 2011年10月
| 言葉を濁さない = 2011年10月
| 雑多な内容の箇条書き = 2011年10月
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*{{要出典範囲|date=2011年10月|義興は公家のような人物だったといわれる。だからといって軟弱な人物ではなく、その生涯を戦陣の中で過ごした英雄である。むしろ、自らを公家のように振舞うことで、京都の戦火を逃れてやってくる公家を山口に迎えて朝廷とのパイプを作り、さらに京都文化を山口で開花させて、山口文化(大内文化)を創出させて領国を「西の小京都」と呼ばれるまでに繁栄させるなど、大内氏の全盛期を築き上げた人物である。}}
*{{要出典範囲|date=2011年10月|大内義興は上洛後に管領代・山城守護に任じられたものの、管領代の職掌については不明である(実際には任命されていないとする説もある)。ただし、京都における足利義稙-細川高国体制を支えたのは義興の軍事的支援によるところが大きく、将軍である義稙も義興による政治的な[[口入]](執申)を拒むことは出来ず、更に義稙を通じて朝廷や寺社にまで影響を及ぼしたという点では管領に匹敵する政治力を有していた(これは[[足利義晴]]期の管領代・近江守護の[[六角定頼]]と共通している)。
*{{要出典範囲|date=2011年10月|上洛を果たしていながら、後の織田信長のように畿内で確固たる地盤を築き上げなかった理由は、領国の周防が京都から遠隔地すぎたこと、大内氏自体が国人の盟主的存在という構造的問題などがあったためと思われる。こうした事情を汲んだ足利義稙は義興は山城守護に任じて同国を拠点に充てようとしたが、かつての[[山城国一揆]]でも見られたように山城[[国衆]]は細川氏の強い影響下にあり、統治は順調には行かなかった。そのため、義興の天下人としての君臨は畿内にいた期間に限られていた。}}
*[[永正]]9年、嵯峨野の西芳寺において「かくばかり 遠き吾妻の 不二がねを 今ぞみやこの 雪の曙」とうたった記録<ref>『義隆記』、『扶桑拾葉集』</ref>がある。