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[[ファイル:Soroku Ebara.jpg|thumb|1913年頃の江原素六]]
'''江原 素六'''(えばら そろく、[[天保]]13年[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]([[1842年]][[3月10日]]) - [[大正]]11年([[1922年]])[[5月19日]])は、旧幕臣、日本の[[政治家]]、[[教育者]]、キリスト者。
 
幕府御家人の嫡子として[[江戸]]、[[角筈]](現[[新宿区]])に生まれる。房楊枝作りを手内職とする貧しい家庭に育ち、辛苦を舐めながらの生活であったが、剣術、洋学を学び、[[講武所]]の教授方として取り立てられる。[[鳥羽伏見の戦い]]では、人材不足の幕府側の指揮官として戦ったことが認められ、[[江戸城]]開城後も[[市川・船橋戦争]]などで新政府軍と戦うも負傷して戦線を離脱する。[[明治維新]]後に偽名を名乗り[[沼津市|沼津]]へ移り住み、後に[[恩赦]]により罪を許される。沼津移住後、旧幕臣の子女への教育の為、[[沼津兵学校]]、駿東女学校(現・[[静岡県立沼津西高等学校]])設立に尽力するとともに、東京に[[麻布学園]]を創設。
== 生涯 ==
幕府御家人の嫡子として[[江戸]]、[[角筈]](現[[新宿区]])に生まれる。房楊枝作りを手内職とする貧しい家庭に育ち、辛苦を舐めながらの生活であったが、剣術、洋学を学び、[[講武所]]の教授方として取り立てられる。[[鳥羽伏見の戦い]]では、人材不足の幕府側の指揮官として戦ったことが認められ、[[江戸城]]開城後も[[市川・船橋戦争]]などで新政府軍と戦うも負傷して戦線を離脱する。[[明治維新]]後に偽名を名乗り[[沼津市|沼津]]へ移り住み、後に[[恩赦]]により罪を許される。沼津移住後、旧幕臣の子女への教育の為、[[沼津兵学校]]、駿東女学校(現・[[静岡県立沼津西高等学校]])設立に尽力するとともに、東京に[[麻布学園]]を創設。
 
沼津では、旧幕臣の授産事業として、[[愛鷹山]]官林の払い下げ運動や茶の輸出会社の設立などを行った。[[駿東郡]]長をつとめたり、[[第1回衆議院議員総選挙]]で当選、[[立憲政友会]]の結成に活躍した。[[1912年]]に[[貴族院_(日本)|貴族院]]に移行しながらも没年まで政治家として活躍した。また[[1877年]]に[[キリスト教]]信者になってからは、沼津教会を設立したり、東京[[YMCA]]([[キリスト教青年会]])第5代[[理事長]]などもつとめ、積極的に宗教活動を行った。自ら設立し校長を務めた[[麻布中学校]]の[[箱根]]への遠足の数日後、[[脳溢血]]で死亡(80歳没)。