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'''游酢'''(ゆう そ、ゆう さく、[[1053年]] - [[1123年]])は、[[北宋]]中国[[儒学]]者。[[]]は定夫。
 
==生涯==
建州建陽県(現在の[[福建省]][[建陽市]])の人。兄の[[游醇]]とともに学問・実行で世に知られる。若い頃から天下の英傑の子と交わり、[[程頤]]が[[開封]]に来たときに游酢の賢明さを見て将来必ず大成することを予言したという。[[程顥]]が[[扶溝県]]の知事として赴任し学校を開いて地方の子弟を教えた時に、游酢を招いて教授を担当させた。元豊6年([[1083年]])に進士に登第し、[[越州]]の䔥山県尉となる。河南府の判事だった[[范純仁]]と知り合い、純仁が穎昌府に転任するのに従い府学教授となり、純仁が宰相となると大学博士となる。純仁が宰相を退官すると[[齊州]]や[[閩州|泉州]]の僉判となった。[[徽宗]]が即位すると監察御史に任命され、その後は[[和州]]・[[漢陽軍]]・[[舒州]]・[[濠州]]の知事となり、官を辞して故郷で没する。享年71歳。
 
游酢は常に時弊を論じ、士風刷新の必要を唱えた。「論士風」では、礼儀廉恥がゆきわたらなければ国家の存立は危殆に瀕すると力説した。その門下には[[呂本中]]・[[曾開]]・[[陳侁]]がいる。
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*『[[宋史]]』巻428・列傳第187・ 道學2
*『宋元学案』巻26
* [[楊時]]『御史游公墓誌銘』(『楊亀山文集』第6巻)
 
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[[ru:Ю Цзо]]