「五流尊瀧院」の版間の差分

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文化財 = 後鳥羽上皇御影塔(国重要文化財)<br />三重塔・梵鐘・十一面観音立像・短刀(県重要文化財)|
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[[Image:Goryu Sonryuin 13.jpg|200px|thumb|宝塔(後鳥羽上皇御影塔)<br />(国の重要文化財)]]
'''五流尊瀧院'''(ごりゅう そんりゅういん)は[[岡山県]][[倉敷市]][[郷内]]に所在する[[修験道]]の寺院。本尊は[[十一面観音]]。天台修験系の一宗派である「修験道」の総本山である。
 
== 概要 ==
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[[承久]]3年([[1221年]])[[承久の乱]]が勃発し、[[園城寺|三井寺]]長吏であった[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]の皇子・[[覚仁親王]]が難を逃れてこの地に下った。更に、敗れて隠岐に遠島となった後鳥羽上皇に連座して、上皇の第4皇子[[頼仁親王]]が児島に配流となった。頼仁親王は衰退していた五流の寺院と十二社権現宮を再興し、[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]の頃まで繁栄し次第に衰微し尊瀧院のみが残った。なお、現在まで続いている当院の歴代大僧正は頼仁親王の子孫と伝えられる。南北朝時代に[[後醍醐天皇]]を奪還しようと試みた[[児島高徳]]はこの地の出身と伝えられ、境内には児島高徳社が祀られている。
 
現在の五流尊瀧院は倉敷市立郷内小学校北に隣接しているが、元来は400mほど北の真浄院北側にあり熊野神社と隣接していたと伝えられている。現在も三重塔、鐘楼などは熊野神社境内に接して建つ
 
[[室町時代]]になり[[応仁の乱]]が勃発すると、この地も戦乱に巻き込まれた。[[応仁]]3年([[1469年]])には[[細川勝元]]方に加担した覚王院の円海を中心とした兵により新熊野は焼き討ちにあい、ほぼ全焼した。
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;岡山県指定重要文化財
*三重塔
:[[文政]]3年([[1820年]])建立、本瓦葺、高さ 21.5m。熊野神社境内南に隣接するして建つ。昭和49年([[1974年]])5月31日指定。指定名称は「尊龍院ほか4か院三重塔」
*梵鐘
:[[康正]]3年([[1457年]])釈元柔の発願により鋳造の銘がある。総高129.4cm、口径70.0cm。熊野神社境内南に隣接して建つ鐘楼に懸る。昭和49年(1974年)5月31日指定。
*木造十一面観音立像
:当院の本尊。[[鎌倉時代]]以降の作と伝えられる。昭和31年([[1956年]])7月3日指定。