「後藤田正晴」の版間の差分

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==政治家引退の時の演説==
[[警察庁長官]]から政界に進出し、[[内閣官房長官]]まで務めた後藤田が公職から退く際、演説を行った。その中で後藤田は「私には心残りがある」と語り、その一つとして警察官僚時代に「のべ600万人の[[警察官]]を動員した[[安保闘争|第二次安保]]警備で、「殺すなかれ」「極力自制にせよ」と指示した結果、こちら側に1万2000名もの死傷者を出してしまった。いまでも私は、その遺族の方々や、生涯治ることのない[[ハンデキャップ]]を背負った方々に対して、本当に心が重い。これが私の生涯の悔いである」と語っている<ref>佐々淳行「日本の警察」PHP新書</ref>。
 
後藤田の警察庁時代は[[日本の学生運動|学生運動]]が過激化し、極左[[過激派]]によるテロが頻発していた時期であり、警備などに従事していた警察官に多くの死傷者が出て、後藤田はこれへの対処に追われた。例えば、後藤田が警察庁長官であった[[1971年]][[9月]]に起きた[[三里塚闘争|成田空港闘争]]の[[東峰十字路事件]]では、警備に従事していた[[機動隊]]が過激派などの空港反対派の集団による襲撃を受け、機動隊員に火炎瓶が投げ付けられ、火だるまになり、のた打ち回っている所を[[鉄パイプ]]や[[角材]]、[[竹槍|竹ヤリ]]などで滅多打ちにされて隊員3名が死亡し、約100名が重軽傷を負った。重傷となった若い隊員の中にはあごの骨を砕かれ、全ての歯を失い、全身を100針も縫い、一時[[重体]]となった隊員もいた<ref>読売新聞 2007年12月26日付記事</ref>。警察庁時代の後藤田の部下であった[[佐々淳行]]は、著書の中でこれら悲痛な思い出が、後藤田に引退の際の台詞を言わせたのではないかと語っている<ref>佐々淳行「日本の警察」PHP新書</ref>。