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'''正木 通綱'''(まさき みちつな、[[明応]]元年([[1492年]])?-[[天文 (元号)|天文]]2年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]([[1533年]][[8月17日]])は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[里見氏]]家臣。[[正木時茂]]・[[正木時忠|時忠]]の父。別名・'''時綱'''(ときつな)、通称・大膳亮。[[安房国]][[山之城]](現在の[[千葉県]][[鴨川市]])城主(異説あり)。
 
伝承によれば、[[三浦高]]([[三浦時|時高]]またはの子、その養子の[[三浦義同]]の子、あるいは義同の弟の[[三浦義時]]の子とされ諸説ある。
 
最初の説によれば[[1494年]]の[[相模三浦氏|三浦氏]]の内紛で義高が義同に殺害された時に、第二の説によれば[[1518年]]に[[北条早雲]]によって三浦氏が滅ぼされた時に、幼児であった通綱が[[安房国]]正木郷に落ち延びて、成長して後に三浦氏と友好関係にあった里見氏によって重臣に抜擢されたと言われている。第三の説によれば、義同の実父でまた義高の養子でもあった[[三浦高救]]が養父によって廃嫡された後に安房に奔り、その子義時が正木姓を名乗って里見氏に臣従し、その実子あるいは婿養子が通綱であるというものである。
 
だが、第一の説の唱える内紛は発生の事実そのものを証明する文献などは無く、第二の説では子供達の生没年と合致せず、第三の説では義時の実在が証明できないために、こうした説は後年[[徳川御三家]]の重臣となった子孫が自らを三浦氏の嫡流とした系譜を創作した可能性がある。また、古文書によれば、内房地域の[[水軍]]勢力に三浦氏の一族と思われる武士達が存在しており、その中に[[正木氏]]の存在も確認される。通綱も元はこうした水軍を率いた三浦氏庶流の武将の一人であったものと思われる。
 
古文書によれば、内房地域の[[水軍]]勢力に三浦氏の一族と思われる武士達が存在しており、その中に正木氏の存在も確認される。通綱も元はこうした水軍を率いた三浦氏庶流の武将の一人であったものと思われる。
 
[[里見義通]]から一字拝領を受けて「通綱」と名乗り、その弟である[[里見実堯]]の配下の将として[[上総国]]へと侵攻している。[[1508年]]に造営された安房国[[鶴谷八幡宮]]の[[棟札]]には「副帥(関東の副将軍=[[古河公方]]の補佐役)源(里見) 義通」に続いて「[[国衙領|国衙]][[奉行]]平(正木) 通綱」の署名が記されている。その後も義通の後を継いだ[[里見義豊]]の命を受けて[[武蔵国]][[品川 (東京都)|品川湊]]への攻撃を指揮しており、急速に里見氏の家中で重きをなした。だが、実堯と義豊の関係が不穏になると、実堯に近い通綱に対しても譜代の重臣の反発が高まるようになる。
 
こうした状況下の中で[[1533年]]、[[稲村城]]において義豊によって実堯ともども殺害されてしまった(「'''[[稲村の変]]'''」、)。一説には古傷の悪化によって稲村城に登城しなかった通綱は殺害を免れたものの、脱出して居城の山之城に逃げ込んだ直後に無理な移動がたたってそのまま危篤状態となり死亡したとする伝承もある
 
==参考文献==