「赤松範資」の版間の差分

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正平5年/観応元年([[1350年]])、父の死により家督を継いで当主となる。同年、尊氏の弟・[[足利直義]]と[[高師直]]の対立である[[観応の擾乱]]では尊氏・師直側に与して直義軍と戦い、[[打出浜の戦い]]に参戦している。しかし翌年、京都堀川七条の自邸にて急死。摂津は嫡男の光範が、家督と播磨は弟の則祐が継いだ。他の息子達はそれぞれの所領から改姓して一門衆になったとされる。
 
の系統は[[七条氏]]として存続、この家系は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[明応]]5年([[1496年]])に[[赤松義村]]が惣領家に復帰し、以後[[関ヶ原の戦い]]の[[赤松則英]]、[[斎村政広]]まで4代続く事になる。また、傍流の[[赤松氏満]]の家系が[[江戸時代]]に[[旗本寄合席|大身旗本]]として[[幕末]]まで存続した。
 
円心の弟という説もある。また、義村の代まで則祐の家系と交互に家督を相続したという説もある。