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'''熊坂長範'''(くまさか ちょうはん)は、[[平安時代]]の伝説上の盗賊。[[室町時代]]後期に成立したとされる[[幸若舞]]『烏帽子折』、[[謡曲]]『烏帽子折』『熊坂』などに初めて登場する。牛若丸([[源義経]])とともに[[奥州]]へ下る[[金売吉次]]の荷を狙い、盗賊の集団を率いて[[美濃国|美濃]][[青墓宿]](または[[赤坂宿 (中山道)|赤坂宿]])に襲ったが、かえって牛若丸に討たれたという。
'''熊坂長範'''('''くまさか ちょうはん''')は、[[平安時代]]の伝説上の[[盗賊]]。
 
源義経に関わる大盗賊として広く世上に流布し、これにまつわる伝承や遺跡が各地で形成され、後世の文芸作品にも取り入れられた。
[[越後国]]熊坂出身。[[牛若丸]]が[[金売吉次]]にともなわれて奥州へ下る途中、これを[[美濃国|美濃]][[赤坂宿 (中山道)|赤坂宿]]で襲ったが、かえって牛若丸に討たれたという。
 
== 概略 ==
[[能]]や[[歌舞伎]]に脚色された。
幸若舞『烏帽子折』による、熊坂長範に関わる話の筋は次のようなものである<ref>「烏帽子折」(『新日本古典文学大系 59』岩波書店、1994年)</ref>。
 
:[[鞍馬寺]]を出奔し金売吉次の供に身をやつした牛若丸は、[[近江国|近江]][[鏡の宿]]で烏帽子を買い求め、自ら元服して九郎義経を名乗った。美濃[[青墓宿]]の長者の館に着いたとき、父[[源義朝|義朝]]、兄[[源義平|義平]]・[[源朝長|朝長]]の三人が夢に現れ、吉次の荷を狙う盗賊が青野が原に集結していることを知らされる。このとき、熊坂長範は息子五人を始め、諸国の盗賊大将七十余人、小盗人三百人足らずを集めていた。青墓宿を下見した「やけ下の小六」は義経の戦装束を見て油断ならぬものと知らせるが、長範は常ならぬ胸騒ぎを覚えるものの、自らの武勇を恃んで青墓宿に攻め寄せた。待ちかまえていた義経は長範の振るう八尺五寸の棒を切り落とし、三百七十人の賊のうち八十三人まで切り伏せる。長範は六尺三寸の長刀([[薙刀]])を振るって激しく打ちかかるが、義経の「霧の法」「小鷹の法」に敗れ、真っ向から二つに打ち割られた。
*能「熊坂」の出典:[[義経記]]・巻二、[[平治物語]]・巻三
 
謡曲『烏帽子折』『熊坂』は、舞台を美濃[[赤坂宿 (中山道)|赤坂宿]]とし、義経との立ち回りに細かな違いは有るものの長範に関わる筋立ては同様である<ref>観世左近編著『烏帽子折』(檜書店)・「熊坂」(『新日本古典文学大系 57』岩波書店、1998年)</ref>。
 
牛若丸が奥州へ下るさいに盗賊を討つ、という逸話は、13世紀半ばに成立した『[[平治物語]]』においてすでに現れている。ここでは、黄瀬川宿(現[[沼津市]])付近で身の丈6尺の馬盗人を捕縛し、百姓家に押し入った強盗6人を切り伏せている<ref>「平治物語」下(『新日本古典文学大系 43』岩波書店、1992年)</ref>。『[[曽我物語]]』では、盗賊を討ったのは[[美濃国|美濃]][[垂井宿]]のこととされ<ref>「曽我物語」巻八(『日本古典文学大系 88』岩波書店、1978年)</ref>、室町時代前期に成立したと考えられる『[[義経記]]』では、[[出羽国|出羽]]の由利太郎と[[越後国|越後]]の藤沢入道に率いられた信濃・遠江・駿河・上野の盗賊勢100人ほどを鏡の宿において討ったとする<ref>「義経記」巻第二(『日本古典文学大系 37』岩波書店、1977年)</ref>。熊坂長範の名が現れる幸若舞『烏帽子折』と謡曲『烏帽子折』『熊坂』の先後関係は明かでないが<ref>「[[看聞日記]]」[[永享]]四年三月十四日条(『続群書類従 補遺第2』)によれば、永享4年(1432年)の伏見宮御所における演能に『九郎判官東下向』が見え、これが現在の謡曲『烏帽子折』であるならば、おおよそ15世紀には熊坂長範の名が登場していたことになる。</ref>、内容から見るといずれも『義経記』、なかでも越後の住人で大薙刀を操る藤沢入道の記述を元に創作された可能性が江戸時代から指摘されている<ref>小山田与清「強盗熊坂長範考」(『古老遺筆 講史資料』松栄堂、1896年)[http://kindai.ndl.go.jp/ 近代デジタルライブラリー]</ref>。
 
== 人物像 ==
幸若舞『烏帽子折』で自ら語るところによれば、越後と信濃の国境にある熊坂に生まれた<ref>謡曲『熊坂』では加賀の熊坂とする。</ref>。もとは仏のような正直者であったが、7歳のとき伯父の馬を盗んで市で売った。これが露見しなかった事に味を占め、以来日本国中で盗みを働き、一度も不覚をとらなかったという。
 
義経に討たれた時は既に老境(齢六十三)に差し掛かっていたが、棒や薙刀(幸若舞『烏帽子折』・謡曲『熊坂』)、或いは五尺三寸の大太刀(謡曲『烏帽子折』)などを振るう豪傑として、小柄で素早い義経と対照的な描写がされている。謡曲『烏帽子折』では投げ込んだ松明を義経に三つとも消され、縁起が悪いとして一旦は退散を考えるものの、「いや熊坂乃長範が。今夜の夜討を仕損じて。何処に面を向くべきぞ。たゞ攻め入れや若者ども」と叱咤する。
 
このような人物像はさらに脚色され、江戸時代には[[歌舞伎]]・[[浄瑠璃]]・[[草双紙]]などにおいて盗賊の代名詞として様々な作品に登場することとなる。
 
== 関連する場所 ==
;長野県信濃町熊坂
:長範山・長範屋敷(『長野県の地名 日本歴史地名大系20』)
;石川県加賀市熊坂
:熊坂長範屋敷
;福井県金津町熊坂
:熊坂物見の松跡碑
;岐阜県大垣市青野
:物見の松・腰かけ岩・かくし厩の跡(『新撰美濃志』)
 
== 脚注 ==
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{{Reflist}}
 
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[[Category:日本の伝説の人物]]