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{{Thumbnail:ノーベル賞受賞者|1980年|ノーベル経済学賞|[[景気変動]]・[[経済政策]]を分析する上での経済的なモデル・手法の開発に対して}}
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'''ローレンス・ロバート・クライン'''(Lawrence Robert Klein、[[1920年]][[9月14日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[経済学者]]。<br />専門はマクロ経済学と計量経済学であり、『ケインズ革命』(1947年)、『アメリカ合衆国の経済変動』(1950年)、『[[計量経済学]]』(1953年)、『計量経済学入門』(1962年)などの著作を発表している。また、「国民経済モデルの国際連結モデル」(LINK)の中心メンバーでもあった
 
 
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===職歴===
*1944年 [[シカゴ大学]]のコールズ・コミッション(経済研究委員会)で経済予測のシステム開発と[[経済政策]]の[[ビジネス]]への影響を研究する(~1947年)。
*1947年 『ケインズ革命』を出版。1年間、ヨーロッパをめぐる。
*1948年 帰国後、[[全米経済研究所]]([[NBER]])に入り、鉄道部門の生産関数の推計を行う。
*1949年 全米経済研究所は、[[ミシガン大学]]のサーベイ・リサーチ研究所との共同プロジェクトに参加。
*1950年 [[ミシガン大学]]で[[講師]]となる([[計量経済学]])。同じく[[オックスフォード大学]]統計研究所上級研究員(~1954年)。
*[[1951年]] 6本の[[方程式]]から成る計量経済モデル(クライン・モデル)を構築し、直近20年のアメリカ経済を概観してみせると共に[[朝鮮戦争]]後の軽微な経済後退を予測してみせた。(研究生のゴールドバーガーとクライン=ゴールドバーガー・モデルを構築する。)
*1953年 『[[計量経済学]]』を出版。
*[[1954年]] [[マッカーシズム]]を嫌って、[[イギリス]]の[[オックスフォード大学]]で統計研究所に入り、イギリス経済のモデル開発に関与。
*1956年 [[オックスフォード大学]]統計研究所計量経済学助教授(~1958年)。
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*1960年夏 [[大阪大学]]客員教授。
*1960年 計量経済学会会長。
*1962年 『計量経済学入門』を出版。
*1964年 ペンシルベニア大学経済学正教授(~1967年)。
*1968年 [[ペンシルベニア大学]][[ウォートン・スクール]]の‘The Benjamin Franklin Professor of Economics and Finance’になる。
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*名誉教授であるが、各国のマクロ経済モデルに協力している。
 
==研究経歴==<!--ウィリアム・ブレイト、ロジャー・W・スペンサー編『経済学を変えた七人』、勁草書房、1988年、pp45-72参照-->
;1.青少年時代
*成長するにつれて大恐慌など当時の経済問題に刺激され、特にケインズ経済学の出現に興味を覚えた。一方、数学にも興味を持っており、当時、確立しつつあった経済学の数学的分析手法にも興味をもった。
;2.大学院(~1944年)
*奨学金を得て[[マサチューセッツ大学]]へ入ったが、最初から大学院生助手として[[サミュエルソン]]教授に付いて研究を進めた。1944年Ph.Dを取る。
;3.コールズ・コミッション(1944年~1947年)
*計量経済学的方法とマクロ経済分析を結合するという試みに確信をもっており、共同研究からシステムを構築した。
;4.ヨーロッパ旅行(1947年)
*ヨーロッパ中の経済および計量経済研究の中心を訪問。イギリスでケンブリッジ・グループと接触をもった。[[カーン]](Richard Kahn)、[[ジョーン・ロビンソン]](Joan Robinson)、[[スラッファ]](Piero Sraffa)のほか、[[カルドア]](Nicholas Kaldor)、[[ストーン]](Richard Stone)にも会った。
;5.[[全米経済研究所]]([[NBER]])(1948年~1950年)
*鉄道部門の生産関数の推計のあと、[[ミシガン大学]]サーベイ・リサーチ研究所の共同研究を行った。
;6.[[ミシガン大学]](1950年~1954年)
*計量経済モデルの構築に戻った。研究生のアーサー・ゴールドバーガーとクライン=ゴールドバーガー・モデルを構築した。
;7.[[オックスフォード大学]](1954年~1958年)
*[[マッカーシズム]]時代、平和と学問の自由をもとめてオックスフォード大学へ移る。オックスフォード・モデルの作成に当たって学生が協力してくれた。
;8.[[ペンシルベニア大学]](1958年~不明)
*[[ペンシルベニア大学]][[教授]]となり、アメリカ経済のモデルに再び着手する。ウォートン・モデルのあと、共同プロジェクトであるブルッキングス・モデル(SSRC=ブルッキングス・モデル)において[[アルゴリズム]]を考案し、後の世代の人々が自由に操ることが可能になった。1963年、ミッシェル・エバンズ教授が加わり、彼のモデルと、ウォートン・モデルを融合させた結合モデルが作られ、「ウォートン計量経済予測ユニット」は大成功となった。
*アメリカで知己なっていた[[森嶋通夫]]と[[市村真一]]の企画に加わり、新しい『インターナショナル・エコノミック・レビュー』の創刊に努力した。また、1960年から何度も日本に招聘され、[[新開陽一]]と共に[[大阪大学]]のモデル作成プログラムに参加した。
*イギリスと日本の経験によって、国際的なモデルの構築に向かった。1966年、アルゼンチン、ブラジル、メキシコのモデルを作った。その後、多くの国のモデルが作られたが、それらの研究から「国民経済モデルの国際連結モデル」というプロジェクト、LINKが生まれた。
 
==日本語訳著書==