「コンラト1世 (マゾフシェ公)」の版間の差分

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[[ファイル:Konrad I Mazowiecki.jpg|right|thumb|200px|[[ヤン・マテイコ]]による肖像画]]
'''コンラト1世マゾヴィエツキ'''(Konrad I Mazowiecki, [[1187年]]? - [[1247年]])は、[[マゾフシェ公国|マゾフシェ]][[マゾフシェ公|公]](在位:[[1197年]] - 1247年)、[[ポーランド君主一覧|ポーランド君主]]([[長子領|クラクフ]][[ポーランド君主一覧|公]]、在位:[[1229年]] - [[1232年]]、[[1241年]] - [[1243年]])。[[カジミェシュ2世]]と、その妻で[[モラヴィア]]のズノイモ公コンラート2世の娘である[[ヘレナ・ズノイェムスカ|ヘレナ]]の間に生れた末息子。[[レシェク1世]]の弟。[[マゾフシェ・ピャスト家]]の祖で、[[ポーランド王国|ポーランド]][[ポーランド国王|国王]][[ヴワディスワフ1世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ1世]]は孫に当たる。
 
== 生涯 ==
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[[1209年]]以降、コンラト1世は異教の地であった[[プルーセン]]に対する遠征を幾度も行ったが成功しなかった。プロイセン初のキリスト教会司教であった[[オリヴァのクリスティアン]]の助言を受け、コンラト1世は[[1220年]]に[[ドブジン騎士団]]を創設したものの、この騎士団の軍事力を以てしてもプルーセン人を帰服させるのは困難であった。プルーセン人達はコンラト1世の攻撃に対し、彼の領国マゾフシェを襲撃して報復する一方、マゾフシェの北隣[[クルマーラント]](ヘウムノ地方)を制圧しつつあった。繰り返すプルーセン人達の攻撃を抑え込みつつ、コンラト1世はマゾフシェ公国の北部地域を安定させるためにはクルマーラントを獲得するための戦いを始ようと考えた。
 
[[1226年]]、コンラト1世はプルーセン人を平定させる目的で[[騎士修道会]]の1つ[[ドイツ騎士団]]を招聘した。ドイツ騎士団は[[1211年]]から[[1225年]]まで[[ハンガリー王国]]を支援する活動に従事していたが、自分たちの第一の主人は[[教皇|ローマ教皇]]であるとの見解を示したため、[[ハンガリー一覧|ハンガリー]][[ハンガリー国王一覧|王]][[アンドラーシュ2世]]の不興を買って同国を追い出されたばかりだった。プルーセン人平定の見返りとして、騎士団はコンラト1世に対してプルーセン人地域([[プロイセン]])を騎士団がコンラト1世と共に分有する権利を認めるように求めた。この権利は1226年3月、[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]の発した[[リミニの金印勅書]]によって確認された。
 
[[1230年]]、コンラト1世がドイツ騎士団とドブジン騎士団にクルマーラントを与えることを約束したクルシュヴィツァ条約が締結されたと言われる。しかし同条約の文書は存在しないため、同条約は署名がされなかったか、ドイツ騎士団が条約の存在を忘れてしまったかのどちらかだと考えられる。
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#ミェシュコ(1235年に誕生、夭折)
 
{{先代次代|[[長子領|クラクフ]][[ポーランド君主一覧|クラクフ公]]|1229年 - 1232年|[[ヴワディスワフ3世ラスコノギ]]|[[ヘンリク1世]]}}
{{先代次代|[[長子領|クラクフ]][[ポーランド君主一覧|クラクフ公]]|1241年 - 1243年|[[ボレスワフ2世ロガトカ]]|[[ボレスワフ5世]]}}
{{ポーランド君主一覧}}
{{DEFAULTSORT:こんらと1 まそふしえ}}
[[Category:ポーランド公]]
[[Category:シェラツ=ウェンチツァ公]]
[[Category:マゾフシェ公]]