「藤堂高兌」の版間の差分
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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 藤堂 高兌
| 時代 = [[江戸時代]]中期 - 後期
| 生誕 = [[天明]]元年[[4月2日 (旧暦)|4月2日]]([[1781年]][[4月25日]])
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| 子 = '''[[藤堂高猷|高猷]]'''、[[中川久昭]]、[[藤堂高美|高美]]<br/>娘([[稲葉正守]]正室)
}}
'''藤堂 高兌'''(とうどう たかさわ)は、[[伊勢国|伊勢]][[津藩]]の第10代藩主。元は伊勢[[津藩#久居藩|久居藩]]の第12代藩主。[[藤堂氏|藤堂家]]宗家10代で久居藩藤堂家12代。
== 生涯 ==
=== 久居藩主
[[天明]]元年([[1781年]])4月2日に生まれる。[[寛政]]2年([[1790年]])、第11代久居藩主・[[藤堂高矗|高矗]]の養嗣子となり、養父が死去すると久居藩主となった。ただし幼少であったため、はじめは[[家老]]の[[藤堂八座]]の補佐を受ける。
このような中、成長した高兌は藩政改革を試みる。寛政9年([[1797年]])に「義倉積米」制度を制定した。これは、藩士の知行や扶持米の
=== 津藩主
高嶷
そのため高兌はまず、藩内における支持を得るため、綿服を常に着て、質素倹約を自ら率先して行なった。自らの生活費などの出費を切り詰め貯金し、10年後には1000両以上の貯金を築き上げたとまで言われている。このため、高兌に反発していた家臣もその政策を支持せざるを得なくなり、倹約にも努めたと言われている。
高兌は津藩の藩政改革には久居藩と同じく、法令の整備や行政機構の改善、[[藩校]]・[[有造館]]の創設などを手始めに行なった。津藩も久居藩と同じく、常に嗣子が無く、久居藩から藩主を迎えていたため、藩政が不安定化し、財政が窮乏化していたのである。さらに財政再建のために灌漑用水の整備や産業の育成などに努めている。さらにこの頃、津藩では綱紀が緩んで不正が相次いでおり、領民も苦しんでいたが、高兌はこれを解決するために勧農方という制度をつくり新しい役職を設置した。これは、高兌の信任における者が就任し、定期的に領内を巡察し、民情を自分に報告させ、農政指導にも当たらせるというものであった。高兌も折を見ては自ら、領内を巡察したと言われている。また、[[灌漑]]用水などの治水工事にも大きな成功を収め、これによって領民の生活は再建されたという。これに感謝した65の村の領民が[[年貢]]でもないのに、藩主に対して240俵を献上したと言われている。▼
▲高兌は津藩の藩政改革には久居藩と同じく、法令の整備や行政機構の改善、[[藩校]]・[[有造館]]の創設などを手始めに行なった。
また、高兌は政治手腕にも優れていたが、教養人・文化人としても優れていた。実は津藩は大藩であるにも関わらず、これまで[[藩校]]が無かった。津藩に藩校・有造館が創設されたのは、彼の時代からのことである。高兌は有能な人材を求めて有造館の他に[[崇光堂]]、[[善正寮]]、[[有恒寮]]などを創設し、藩士の子弟は勿論のこと、領民にも教育の奨励を促した。この藩校創設のとき、高兌は[[津阪東陽]]を登用して、[[国学]]や[[兵法]]、[[武術]]、[[洋学]]、[[医学]]、[[西洋]]数学を取り入れたのである。教育普及と進んだ教育の取り入れには、東陽の手腕と高兌の学問好きが一因していたとも言えるのである。このように、高兌の藩政改革は財政再建、人心収攬、教育制度確立、藩政の安定化など、いずれも成功を収めたのであった。▼
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=== 領民に慕われながらの死去 ===
高兌の父・高嶷は厳しい藩政改革を行なって、「神仏の敵」とまで呼ばれるほど
=== 死後と評価 ===
高兌の死後、家督は長男の[[藤堂高猷|高猷]]が継いだ。
高兌は[[江戸時代]]後期の[[名君]]の一人である。当時、44歳は若いとは言えないが、
{{先代次代|[[藤堂氏|藤堂家当主]]|第18代:1806年 - 1824年<br/>藤堂高兌|[[藤堂高嶷]]|[[藤堂高猷]]}}
{{久居藩主|12代|1790年 - 1806年}}
{{津藩主|藤堂氏|10代|1806年 - 1824年}}
{{DEFAULTSORT:とうとう たかさわ}}
[[Category:藤堂氏|たかさわ]]
[[Category:江戸の大名]]▼
[[Category:外様大名]]
[[Category:1781年生]]
[[Category:1825年没]]
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