「ドイツ勲章」の版間の差分
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'''ドイツ勲章'''([[ドイツ語|独]]:Deutscher Orden)は[[国家社会主義ドイツ労働者党]]
== 解説 ==
最初に受章したのは軍需大臣[[フリッツ・トート]]だった。トートは[[アウトバーン]]の建設者であり、戦時中にはトート機関の長また軍需大臣として陸軍や海軍の基地の建設に携わった人物である。彼は1942年2月7日に飛行機事故で死亡したため、2月12日に同勲章の追贈を受けた。▼
恐らくナチス・ドイツの勲章の中でも最も豪華なデザインである<ref name="後藤(2000)50"/>。鉄十字の形をした勲章で中央には[[黄金ナチ党員バッジ]]と同じデザインのナチ党章、また鉄十字の各腕の間には鷲章が付いている<ref name="後藤(2000)50"/>。
1級から3級まで存在する<ref name="後藤(2000)50"/>。1級は十字の上の吊り金具が二本の交差した剣とオリーブの輪のデザインになっており、綬(リボン)を使って襟元に佩用する<ref name="後藤(2000)50"/>。2級も綬を使って襟元に佩用するが、こちらは吊り金具に剣とオリーブの輪のデザインがない<ref name="後藤(2000)50"/>。3級は後ろがピンになっており、胸に佩用する<ref name="後藤(2000)50"/>。
2人目の受章者は「[[ユダヤ人問題の最終的解決]]」の執行者として悪名高き[[ラインハルト・ハイドリヒ]][[親衛隊大将]]であった。ハイドリヒは[[ベーメン・メーレン保護領]](チェコ)副総督をしていた1942年5月27日に[[プラハ]]でイギリス政府の放ったチェコ人暗殺部隊の襲撃を受け、その時の負傷がもとで6月4日になって死亡している。6月9日に同勲章が追贈された。▼
▲最初に受章したのは軍需大臣[[フリッツ・トート]]だった。トートは[[アウトバーン]]の建設者であり、戦時中にはトート機関の長また軍需大臣として陸軍や海軍の基地の建設に携わった人物である。彼は1942年2月7日に飛行機事故で死亡したため、2月12日に同勲章の追贈を受けた<ref name="後藤(2000)52">[[#後藤(2000)|後藤(2000)]] p.52</ref>。
▲2人目の受章者は「[[ユダヤ人問題の最終的解決]]」の執行者として悪名高き[[ラインハルト・ハイドリヒ]][[親衛隊大将]]であった。ハイドリヒは[[ベーメン・メーレン保護領]](チェコ)副総督をしていた1942年5月27日に[[プラハ]]でイギリス政府の放ったチェコ人暗殺部隊の襲撃を受け、その時の負傷がもとで6月4日になって死亡している。6月9日に同勲章が追贈された<ref name="後藤(2000)52"/>。
このように死後の追贈が多い勲章だったので「死の勲章」などとも呼ばれていた<ref name="後藤(2000)50"/>。
== 11名の受章者 ==
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== 出典 ==
<references />
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[後藤譲治]]|year=[[2000年]]|title=ヒットラーと鉄十字章―シンボルによる民衆の煽動|publisher=[[文芸社]]|isbn=978-4835504506|ref=後藤(2000)}}
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