「エロティシズム」の版間の差分

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[[シモーヌ・ド・ボーヴォワール]]は『第二の性』の中で、哺乳類の場合には性は雄と雌で異なる意味をもっているということを強調した。雌の場合、「個体性は要求されない。雌は、種の保存のために自己放棄が必要だとすれば、自己を放棄するのである」。それゆえ雄のほうは誘惑者の役割をとりわけ果たすことになる。これはさらには侵略者の役割となるかもしれず、過剰なまでの気前のよさを無償で示すことによって、生命力を見せつけることであるかもしれない。媚態(コケットリー)とは気を引きながら決して相手のものにならないことであり、拒みながら与えることであるが、それが雌の不安の表現であるのは、雌はその身に子を宿し、([[出産]]という形で)我が身を[[疎外]]するものだからである。
 
ただしエロティシズムは欲望の荒々しさとは正反対のものである。あるいは少なくとも荒々しい欲望を隠そうとする。[[アラン]]は動物が行う求愛のダンスについて書きながら、「動物はあまり自分を見せつけないほうがよいし、人間的な優しさを発揮するほうがよい」と述べている。エロティシズムは熱狂的な近しさを表明するものであると同時に、熱狂を抑制する能力を明示するものでもある。この意味でエロティシズムは[[昇華 (心理学)|昇華]]なのであるが、それはセクシュアリティ(性)からわれわれの目をそらすためのものというよりも、万難を排してセクシュアリティを純化するためなのである。こうしてエロティシズムは一個の芸術となり、生命の律動となる。
 
従ってポルノグラフィとエロティシズムを区別するのは正しい。ポルノグラフィとはある種欲望の否定であり、他者の人格の否定なのである。猥褻はリアリズムの特徴を帯びている。そこでは肉体や性行為は、モノとして示される。女性性は否定される。それは隠れてしか存在しないからだ。とはいえ、エロス的な営みの根底には、肉体という地平がある。エロス的な営みが他者に純潔の衣を着せるのは、この衣を剥ぐためでしかない。レヴィナスによれば「芸術における美は女性の顔における美しさを転化させる」。なぜなら芸術的美は、女性の顔から深みと肉体的狼狽を奪い、女性の美しさを絵画とか彫刻といった中立的素材ですっかり覆われた形態に変えてしまうからだ。「転化」という言葉はもしかすればプラトン的愛([[プラトニック・ラブ]])のことを暗示しているかもしれない。プラトン的愛は少年を対象としており、[[昇華]]によって肉体的美から魂と観念の美へと昇っていくことをめざすからである。しかしエロス的裸出性においては「顔は摩滅し」、「曖昧なものと化して獣性へと延長されていく」。レヴィナスによれば美の曖昧さは顔そのものの曖昧さである。顔は敬うよう求めつつ、冒瀆にさらされてもいる。「不敬は顔を前提としている」。