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== 来歴・人物 ==
呉港中学(現:[[呉港高等学校|呉港高校]])で[[藤村富美男]]の4学年下、弟の[[藤村隆男]]と同期。また呉出身の著名選手は皆、[[呉市営二河野球場|二河球場]]に近い山手町近辺の出身である。進の兄である柚木俊治は藤村富美男とともに1934年夏の甲子園の優勝メンバーであった(立教大学に進学、太平洋戦争で戦死)<ref>南萬満『真虎伝』新評論、1996年、P12 - 14。</ref>。呉港中学二年の[[第21回全国中等学校優勝野球大会|1935年夏大会]]で[[代打|ピンチ・ヒッター]]として1試合出場。[[第23回全国中等学校優勝野球大会|1937年夏大会]]には2学年上のエースで4番[[田川豊]]と、投手兼・[[一塁手|ファースト]]3番で出場。藤村隆男も投手兼・[[中堅手|センター]]6番で、3投手を擁したが準々決勝でこの年準優勝した[[熊本県立熊本工業高等学校|熊本工業]]の[[川上哲治]]に3安打に抑えられた(1-5)。この大会三試合に、この3人が入れ代わり立ち代り投げたが、二回戦の[[平安中学校・高等学校|平安中学]]戦で10点取られたのを始めよく打たれた。最上級生となった[[第16回選抜中等学校野球大会|1939年春選抜]]には、おそらく高校野球史で他に例の無い、のちプロで二人とも百勝をげる藤村隆男との二枚エースで出場したが初戦敗退した(対[[静岡県立島田商業高等学校|島田商業]]1-2)。
 
[[1940年]][[法政大学]]に進学し、ここでもエースとして活躍。サウスポー独特の内角にクロスする速球で[[東京六大学|六大学]]の打者を手こずらせた。また打撃にも優れ先輩・田川らと[[1941年]]春、法政5度目の優勝に貢献。しかし華やかな野球人生は戦争で挫折、[[応召]]し[[満州国]]へ従軍した。戦後も[[ソビエト連邦]]の[[捕虜]]となり、長く[[シベリア]]での[[強制労働]]を強いられた([[シベリア抑留]])。その時腰を痛め、[[後遺症]]でその後も突然の脱力感に襲われることがあった。  
 
[[1948年]]、シベリアから寂しく帰還。呉港中の先輩・藤村が帰還を知り、自宅問したが一足違いで、法政の先輩である[[鶴岡一人]]監督の南海に入団。鶴岡の情熱と熱意で7年間のブランク後再び野球界復帰を決意した。同年ルーキーで19勝をげ、以後7年連続2桁勝利をマークし挙げて、南海黄金時代、[[杉浦忠]]入団前のエースとして君臨した。長いブランクからか二年目には早くも球威が落ちたが、それまでの力で押すピッチング投球からワザの投球へ、変化球投手に見事にモデルチェンジ。癖のない投法、華麗なフォームで、完璧ともいうべき制球力、打者の心理を読む投球術を兼備した。この間4度19勝をマーク挙げる。1948年は[[防御率]]2位(1.89)。[[1951年]]は[[最優秀防御率|防御率第1位]]投手<ref>防御率1位は[[服部武夫]]であるが、同年度にかぎり採用された資格投球回数算定法による標準回数に達しなかったため、柚木が防御率第1位投手となった。[[日本野球機構|社団法人日本野球機構]]編 『オフィシャル ベースボール・ガイド』2003 共同通信社、371頁。ISBN 4-7641-0522-5</ref>。[[1952年]]も防御率1位、勝率1位、[[奪三振]]1位の投手三冠を達成、[[ベストナイン]]・[[最優秀選手 (野球)|MVP]]にも選ばれた。二年連続・防御率1位は過去11人しか記録していない大記録である。その一方、19勝のシーズンをこれだけ記録しながら、ついにシーズン20勝を一度も経験しなかった投手としても知られる。[[1956年]]引退。その後11年間、投手コーチ、スカウト、二軍監督を歴任。コーチ時代は[[皆川睦雄]]らを育てるなど南海黄金時代を陰で支え、スカウトとしては[[門田博光]]を発掘した実績を持つ。1997年10月22日死去。[[享年]]77。
 
==詳細情報==