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きまま (会話 | 投稿記録)
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「平成」は、改元時の[[内閣総理大臣]]・[[竹下登]]ら政府首脳も決定前から執心していたという([[渡部恒三]])<ref>[[佐野眞一]]『ドキュメント昭和が終わった日2 元号「平成」の決定の瞬間』(『文藝春秋』2009年3月号掲載)</ref>。また、閣僚などを通じ、「平成」や「修文」などの候補が外部に漏れ、幾ばくかの国民の間では予想する事も可能であった。しかし、[[佐野眞一]]は『[[文藝春秋]]』に載せた記事の中で、[[的場順三]]内閣内政審議官(当時)が「元号は縁起物であり改元前に物故した者の提案は直ちに廃案になる」<ref>的場は新元号考案の委嘱を受けた人物には[[諸橋轍次]]、[[貝塚茂樹]]、[[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]の名をあげているが昭和天皇崩御前に物故したため彼らの提案はすべて廃案になったとしている。佐野(同掲文)</ref>と発言したとしている。また佐野は、[[宇野精一]]、[[目加田誠]]、[[山本達郎]]に新元号提案の委嘱があったといわれ、目加田が「修文」を宇野が「正化」を提案したことを認めているが、山本だけが「ノーコメント」を貫いたため山本が「平成」の提案者ではないかと「断定してよさそうである」と書いている<ref>佐野(同掲文)</ref>。
一方非公式ながら、1990年(平成2年)1月、竹下登が講演の際、「平成」は[[陽明学]]者[[安岡正篤]]の案であったと述べている。<ref>「雑学大全」230ページ 東京書籍2007年刊/ISBN 978 4 487 80130 5C </ref>
 
政府は[[昭和天皇]][[崩御]]を受け、その当日([[1989年]]([[昭和]]64年)[[1月7日]])の午後、「元号に関する懇談会」(8人の有識者で構成)と[[衆議院|衆]][[参議院|参]]両院正副議長に「平成」「修文」「正化」3つの候補を示し、意見を聴い求めた。その際、委員の間から「修文(しゅうぶん)」「正化(せいか)」の2候補は[[ローマ字]]表記の頭文字が「昭和」と同じ「S」になるので不都合ではないかという意見が出て、全員一致で「平成」に決まったと伝えられる。
 
同日14時10分から開かれた臨時[[閣議]]に於いて新元号を正式に決定。14時36分、[[内閣官房長官]]・[[小渕恵三]]が記者会見で発表。
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{{Quotation|只今終了致しました閣議で元号を改める政令が決定され、第1回臨時閣議後に申しました通り、本日中に公布される予定であります。'''新しい元号は、平成であります'''。}}
 
と言いながら新「平成」を墨書した台紙を示す姿は、新時代の象徴とされた。
 
同日、「元号を改める[[政令]]」(昭和64年政令第1号)は新天皇の[[決裁|允裁(いんさい)]]を受けた後、[[官報]]号外によって[[公布]]され、翌[[1月8日]]から[[施行]]された。また、「元号の読み方に関する件」(昭和64年内閣[[告示]]第6号)が告示され、新元号の読み方が「へいせい」であることが明示された。
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* [[追号]]しても、[[薬子の変]]を起こし、敗れた[[平城天皇]]と一文字違いである点も懸念された。
 
なお最終案である「平成」「修文」「正化」の他に「文思」「天章」「光昭」などの案も存在したと言われる。
 
== 時代の流れ ==