「ウィレム1世 (オランダ王)」の版間の差分

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|画像幅 =
|画像代替文 = ウィレム1世
|画像説明 = [[ヨセフ・パエリンク]]画、[[1819年]]<br>([[アムステルダム国立美術館]]蔵)
|画像説明 =
|地位 = [[ネーデルラント連合王国|オランダ]][[オランダ君主一覧|国王]]
|在位 = [[1815年]][[3月16日]] - [[1840年]][[10月7日]]
[[1795年]]、[[フランス第一共和政|フランス]]軍の侵攻により共和国が崩壊すると、父に従って[[グレートブリテン王国|イギリス]]に亡命した。[[1799年]]にはイギリス軍に加わって、フランスの属国となったオランダ([[バタヴィア共和国]])に侵攻したが撃退された。父ウィレム5世は亡命中の[[1802年]]にオラニエ公の称号(祖父[[ウィレム4世 (オラニエ公)|ウィレム4世]]以降は名目のみとなっていた)とともに家督を譲り、[[1806年]]にドイツで死去した。
 
プロイセン軍に参加していたウィレムは[[1806年]]のイエナ・アウエルシュタット戦役のうちの[[アウエルシュタットの戦い]]で戦ったのち、その2日後に[[エアフルト]]をフランス軍に明け渡した。この重要な町のあっけない降伏に関して、後の調査委員会で大きな問題とされたが、義理の兄となっていたプロイセン国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]が介入したため、処罰を免れた<ref>Hofschröer 『1815 THE WATERLOO CAMPAIGN: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras』 P21</ref>。
 
[[1813年]]にフランス軍の撤退後、オランダに帰還し、臨時政府から「君主」の称号を受けた。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]失脚後の[[1815年]]、[[ウィーン会議]]により、[[18世紀]]まで共和制を布いていたオランダと[[ハプスブルク家]]の領土だった[[南ネーデルラント]]を併せて[[立憲君主制|立憲君主国]]オランダ王国([[ネーデルラント連合王国]])が成立すると、初代国王に即位した。また、[[ナッサウ家]]の古くからの所領であった[[ラインラント]]の[[ナッサウ]]、ディレンブルク、ディーツなどの所領が[[プロイセン王国|プロイセン]]領に併合されるのと引き換えに、[[ルクセンブルク大公]]を兼ねることとなった。
 
== 脚注 ==
{{reflist}}
<references/>
 
== 参考文献 ==
* [[フランス革命戦争]]
 
{{オランダ君主}}
{{先代次代|[[オランダ君主一覧|オランダ国王]]|1815年 - 1840年|([[ナポレオン・ルイ・ボナパルト|ローデウェイク2世]])|[[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]}}
{{先代次代|[[ルクセンブルク大公]]|1815年 - 1840年|―|[[ウィレム2世 (オランダ王)|ギヨーム2世]]}}