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Hansa (会話 | 投稿記録)
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== 生涯 ==
「[[董卓]]伝」の引く『漢末名士録』や『[[後漢書]]』の「党錮伝」によると、漢の[[八俊]](八厨)の一人であったとある。若い頃から男伊達で気前がよく、困っている者を救うための散財を惜しまなかった。[[曹操]]や[[袁紹]]と親友のように仲がかった<ref>袁紹とは、[[許攸]]、[[何ギョウ|何顒]]、[[伍瓊]]達と共に「奔走の友」と呼ばれる契りを結び(「袁紹伝」)、曹操とは、互いが死んだ時に家族の面倒を見る事を約束するほどに仲がかった。現に193年に曹操が徐州討伐に向かったときに、家族に「わしに万が一もしものことがあれば、孟卓(張邈)を頼れ」と述べている。</ref>。
頭脳の明晰さと徳行で官界に知られるようになった。三公の府に招聘を受け、成績優秀という評価を受け、[[騎都尉]]を務めた後、[[董卓]]の名士優遇策の一環として、陳留郡の太守に任命された(「董卓伝」)。
 
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張邈と呂布は短期間で曹操の本拠地である兗州の大半を占領した。急報を聞きつけ、遠征先の徐州から引き返し、逆襲を期する曹操軍を返り討ちにする事にも成功した。しかし、[[荀彧]]・[[程イク|程昱]]・[[夏侯惇]]・[[棗祗]]らが守る3城を落とせず、曹操の勢力に止めを刺す事は出来なかった。その後、飢饉が勃発し、両者の争いは一時的に中断される。
 
翌・興平2年([[195年]])には、勢いを盛り返した曹操に敗れ、兗州から撤退。呂布や陳宮らは、陶謙から徐州を譲り受けていた[[劉備]]を頼って落ち延びた。張邈自身は、陳留に居た弟の張超らと分断されていた。張邈は、陳留の一族を救出するため[[袁術]]に援軍を求めに向かう途上、部下の裏切りにあい、殺された。前後して陳留は落ち、張超など張邈の遺族は、曹操の追及を逃れて[[雍丘]]に移った。このころには曹操は[[長安]]の[[天子]]から正式に兗州の牧に任命され(武帝紀)、張邈たちは賊の立場に追い込まれていた。
 
翌[[建安 (漢)|建安]]元年([[196年]])、雍丘は曹操軍の攻撃によって陥落。張超は焼身自殺し、張邈の三族(父母、兄弟、実子と養子)も、曹操によって皆殺しの刑に処せられた。