「小笠原貞孚」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 小笠原 貞孚
| 時代 = [[江戸時代]]末期([[幕末]]) - [[明治時代]]
| 生誕 = [[嘉永]]3年[[11月4日 (旧暦)|11月4日]]([[1850年]][[12月7日]])
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| 兄弟 = '''貞孚'''、[[小笠原忠忱|忠忱]]
| 妻 = 正室:[[松平光則|戸田光則]]の娘
| 子 = 養子:''[[小笠原長丕|長丕]]''
| 特記事項 =
}}
 
'''小笠原 貞孚'''(おがさわら さだざね / さだちか))は、[[江戸時代]]の[[大名]]。[[播磨国|播磨]][[安志藩]]の第7代(最後)の藩主。忠脩系[[小笠原氏|小笠原家]]12代。
 
== 生涯 ==
嘉永3年(1850年)11月4日、第6代藩主・[[小笠原忠幹|小笠原貞幹]]の長男として生まれる。[[万延]]元年([[1860年]])に父が[[小笠原忠幹]]と改名して本家[[豊前国|豊前]][[小倉藩]]の第9代藩主となったを継いだため、嫡男である貞孚が家督を継いで代わって安志藩主となる。
 
[[幕末]]期には本家の父と協力し、[[元治]]元年([[1864年]])の[[第1次長州征伐]]や[[慶応]]2年([[1866年]])の[[第2次長州征伐]]では小倉入りして参加している。しかし第2次長州征伐では[[長州藩]]の軍勢に敗れて[[肥後国|肥後]]にまで撤退した。なお、慶応元年(1865年)には父の死により弟・[[小笠原忠忱|忠忱]]が小倉藩主となっている
 
明治2年([[1869年]])6月の[[版籍奉還]]で[[藩知事]]となる。明治4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]で免官となった。明治17年([[1884年]])に[[子爵]]を授けられた。明治38年(1905年)6月3日、安志で死去した。享年56。墓所は[[東京都]][[練馬区]]桜台の円満山[[広徳寺]]。
墓所は[[東京都]][[練馬区]]桜台の円満山[[広徳寺]]。
 
{{安志藩主|7代|1860年 - 1871年}}
{{先代次代|[[小笠原氏|小笠原子爵家(忠脩系)]]|第12代|-|[[小笠原長丕]]}}
 
{{DEFAULTSORT:おかさわら さたさね}}
[[Category:譜代大名安志藩主|*07]]
[[Category:小笠原氏|さたさね]]
[[Category:譜代大名]]
[[Category:幕末の大名]]
[[Category:日本の子爵]]