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豊前[[小倉藩]]主・[[小笠原忠真]]の四男。母は永貞院。正室は[[黒田長興]]の娘。官位は従五位下。[[備後国|備後]]守。[[備中国|備中]]守。幼名は千助。
 
慶安5年(1652年)4月20日生まれ。[[寛文]]11年([[1671年]])9月23日、兄の小倉藩主・[[小笠原忠雄]]より1万石を分与されて、[[小倉藩]]の支藩である小倉新田藩を立藩した。しかし藩政においては家老、並びに本家の小倉藩によって執り行なわれたうえ、自身は領地に赴かずに篠崎館に住んだので篠崎殿と称された。
 
宝永6年(1709年)7月5日、[[参勤交代]]で船により帰国途中の[[讃岐国]][[小豆島]]の坂手浦において、暴風雨のために船が遭難し、溺死してしまった。享年58。を甥で養嗣子の[[小笠原貞通|貞通]]が継いだ。墓所は[[北九州市]][[小倉北区]]の[[開善寺 (北九州市)|開善寺]]。
 
{{千束藩主|初代|1671- 1709}}
 
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{{千束藩主|初代|1671-1709}}
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