「長谷部言人」の版間の差分
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== 来歴 ==
*[[1882年]]
*[[1906年]]
*[[1907年]]
*[[1908年]]
*[[1910年]]
*[[1912年]]
*[[1913年]]
*[[1914年]]
*[[1915年]]
*[[1920年]]
*[[1933年]]
*[[1938年]]
*[[1939年]]
*[[1943年]]
*[[1944年]]
*[[1951年]]
*[[1953年]]
*[[1969年]]
== 人物 ==
[[東京都立日比谷高等学校|府立一中]]、[[第一高等学校 (旧制)
[[直良信夫]]が[[兵庫県]][[明石市]]西八木海岸で発見した左腰骨の石膏模型を研究し、それを原人の骨と唱え、「[[明石原人]]」と命名した。
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その長谷部の学説を、[[池田次郎]]は次のように記している。
長谷部の研究は清野とは対照的に、主として東日本の人骨を材料とし、計測値の統計結果にとらわれずに、洪積世人類の骨格特徴にみられる時代的変化の説明原理を日本人種論に導入したことに特色がある。戦後になって、自己の主張を体系的に組み立てた「日本民族の成立」
日本人の年代的変化を綿密に分析し、この長谷部の日本人説を発展させ、変化説を強化したのが、高弟の[[鈴木尚]]であった。
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