「長谷部言人」の版間の差分

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== 来歴 ==
*[[1882年]]  東京麹町に生まれる。生粋の江戸っ子だった。
*[[1906年]]  [[東京医科大学|東大医科]]を卒業、解剖学教室で[[小金井良精]]の指導を受けた。
*[[1907年]]  小金井の推薦により、[[京大医科]]解剖学教室の[[足立文太郎]]の助手となった。
*[[1908年]]  同助教授になる。
*[[1910年]]  健康を害して東京に戻る。
*[[1912年]]  [[新潟医学専門学校]]講師となる。
*[[1913年]] [[ 新潟医学専門学校]]教授となる。
*[[1914年]]  退職
*[[1915年]]  [[ミクロネシア文部省調査隊員]]として参加。東北大助教授となる。
*[[1920年]]  東北大教授となる。
*[[1933年]]~35 - 1935 医学部長を務める。
*[[1938年]]  [[東大理学部]]助教授となる。
*[[1939年]]  [[人類学教室]]を[[人類学科]]として改めて学生をとることにして、主任教授となる。
*[[1943年]]  定年退職
*[[1944年]]  東北大名誉教授となる。
*[[1951年]]~68 - 1968  [[日本人類学会]]会長をつとめる。
*[[1953年]]  [[日本学士院]]会員となる。
*[[1969年]] 12月 死去
 
== 人物 ==
[[東京都立日比谷高等学校|府立一中]]、[[第一高等学校 (旧制) |一高]]を経て、[[1906年]][[東京大学|東京帝国大学]]医科大学卒業後、[[京都帝国大学]]にて肉眼解剖学と人類学を専攻。新潟医学専門学校(現[[新潟大学]][[医学部]])、[[東北帝国大学]]教授を経た後、[[1938年]]東京帝国大学理学部教授就任。人類学に理化学的研究法を導入し、理学部に人類学科を創設する。
 
[[直良信夫]]が[[兵庫県]][[明石市]]西八木海岸で発見した左腰骨の石膏模型を研究し、それを原人の骨と唱え、「[[明石原人]]」と命名した。
その長谷部の学説を、[[池田次郎]]は次のように記している。
 
長谷部の研究は清野とは対照的に、主として東日本の人骨を材料とし、計測値の統計結果にとらわれずに、洪積世人類の骨格特徴にみられる時代的変化の説明原理を日本人種論に導入したことに特色がある。戦後になって、自己の主張を体系的に組み立てた「日本民族の成立」(昭和24年)では、前期洪積世以降の日本列島住民の転変を、身体と文化の両面から考察し、縄文人と古墳時代人との体質的差異は、狩猟採集経済を基盤とする石器時代の生活から、水田農耕に依存する金属器時代の生活への転換が、租借筋、下肢筋の弱体化を招く結果を生じたと解釈し、弥生式時代およびその後においても、日本人の体質を一変させるほどの混血はおこらず、日本人は石器時代から現代にいたるまで遺伝的に連続した集団であると断言している。
 
日本人の年代的変化を綿密に分析し、この長谷部の日本人説を発展させ、変化説を強化したのが、高弟の[[鈴木尚]]であった。