「藤堂高兌」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 久居藩主時代 ===
[[天明]]元年([[1781年]])4月2日に生まれる。[[寛政]]2年([[1790年]])、第11代久居藩主・[[藤堂高矗|高矗]]の養嗣子となり、養父が死去すると久居藩主となった。ただし幼少であったため、はじめは[[家老]]の[[藤堂八座]]の補佐を受ける。久居藩は藩主の早世や本家の津藩主への転任が多かったため、藩政が安定化せずに混乱し、財政も窮乏化していた。
 
このような中、成長した高兌は藩政改革を試みる。寛政9年([[1797年]])に「義倉積米」制度を制定した。これは、藩士の知行や扶持米のうち、100分の1を積み立てる貯金のようなものであった。そして高兌はこの資金を基に、藩内における新たな事業資金にしたり、経済的に窮乏している者に対しての貸付金にしたり、さらには[[藩校]]の運営資金や災害復興費などに当てた。父で津藩を継いでいた[[藤堂高嶷|高嶷]]もこれを助けている。他にも法令の整備、行政機構の改善、綱紀の引き締めなどを行なって、乱れていた藩政を立て直した。なお、「義倉積米」制度は[[廃藩置県]]まで継続され、最終的には11万6800両も積み立てられたが、長期にわたって継続することができたのは、高兌があくまで資金を公的に使い、私的に使うことを厳禁していたためであると言われている。
 
=== 津藩主時代 ===
津藩では兄の[[藤堂高崧|高崧]]が[[嫡子]]となっていたが、高崧が早世したため、[[文化 (元号)|文化]]3年([[1806年]])に父・高嶷が死去すると、高兌が津藩主を継いだ。久居藩主は高兌の弟である[[藤堂高邁|高邁]]が継いだ。久居藩主から津藩主への転任は、上述の通り藩政に混乱をきたすほど常態化しており、父・高嶷に続いて高兌も新たな一人となった。
 
高嶷の津藩主時代にも、財政再建を主とした藩政改革が行われていた。金融政策・[[殖産興業]]・土地制度改革がそれである。ところが金融政策において借金の棒引きを強行し、土地制度においても均田制を目指した結果、それまで地主であった者たちから反発を受けたため、藩政改革は挫折した。このため、高嶷の評判は藩内で非常に悪かった。そのような中で跡を継いだ高兌に対しては、その政治手腕に期待する者も多かったが、同時に反発する者も少なくなかった。
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そのため高兌はまず、藩内における支持を得るため、綿服を常に着て、質素倹約を自ら率先して行なった。自らの生活費などの出費を切り詰め貯金し、10年後には1000両以上の貯金を築き上げたとまで言われている。このため、高兌に反発していた家臣もその政策を支持せざるを得なくなり、倹約にも努めたと言われている。
 
高兌は津藩の藩政改革には久居藩と同じく、法令の整備や行政機構の改善、[[藩校]]・[[有造館]]の創設などを手始めに行なった。久居から藩主を迎えるのが常態化し、安定した家督相続が行われない状況下で、津藩でも藩政が不安定化し、財政が窮乏化していたのである。さらに財政再建のため灌漑用水の整備や産業の育成などに努めている。さらにこの頃、津藩では綱紀が緩んで不正が相次いでおり、領民も苦しんでいたが、高兌はこれを解決するために勧農方という制度をつくり、新しい役職を設置した。これは、高兌の信任における者が就任し、定期的に領内を巡察し、民情を自分に報告させ、農政指導にも当たらせるというものであった。高兌も折を見ては自ら領内を巡察したと言われている。また、[[灌漑]]用水などの治水工事にも大きな成功を収め、これによって領民の生活は再建されたという。これに感謝した65の村の領民が[[年貢]]でもないのに、藩主に対して240俵を献上したと言われている。
 
高兌は政治手腕にも優れていたが、教養人・文化人としても優れていた。津藩は大藩であるにもかかわらず、それまで[[藩校]]がなく、[[有造館]]が創設されたのは高兌の時代のことである。高兌は有能な人材を求めて、有造館の他に[[崇光堂]]、[[善正寮]]、[[有恒寮]]などを創設し、藩士の子弟はもちろんのこと、領民にも教育の奨励を促した。この藩校創設のとき、高兌は[[津阪東陽]]を登用して、[[国学]]や兵法、武術、洋学、医学、西洋数学を取り入れたのである。教育普及と進んだ教育の取り入れには、東陽の手腕と高兌の学問好きが一因していたとも言える。このように、高兌の藩政改革は財政再建、人心収攬、教育制度確立、藩政の安定化など、いずれも成功を収めた。
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高兌は[[江戸時代]]後期の[[名君]]の一人である。当時、44歳は若いとは言えないが、高兌がもし長命だったなら、藩の行く末は大いに変わっていたと考えられる。しかし、跡を継いだ高猷はあまり優れた人物とは言えず、津藩の財政は高兌の死後、再び悪化していった。
 
{{先代次代|[[藤堂氏|藤堂家当主]]|第18代:1806年 - 1824年<br/>藤堂高兌|[[藤堂高嶷]]|[[藤堂高猷]]}}
{{久居藩主|12代|1790年 - 1806年}}
{{津藩主|藤堂氏|10代|1806年 - 1824年}}
50行目:
{{DEFAULTSORT:とうとう たかさわ}}
[[Category:藤堂氏|たかさわ]]
[[Category:外様大名津藩主|藤10]]
[[Category:久居藩主|*12]]
[[Category:1781年生]]