「阿部正桓」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
PibotPu (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
'''阿部 正桓'''(あべ まさたけ、[[嘉永]]4年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]([[1852年]][[1月20日]]) - [[大正]]3年([[1914年]])[[8月19日]])は、[[備後福山藩]](現在[[広島県]][[福山市]])第10代の藩主で最後の藩主。阿部家宗家14代。
 
[[浅野懋昭]]([[安芸国]][[広島藩]]主・[[浅野重晟]]の孫)の三男。正室は[[松平茂昭]]の養女([[阿部正弘]]の娘)。継室は[[鍋島直紀]]の娘。子は[[阿部正直 (伯爵)|阿部正直]](長男)、[[酒井忠正]](次男)。養子に[[阿部正義]]。官位は従二位、爵位は[[伯爵]]
 
== 略歴生涯 ==
阿部正桓(初名、浅野元次郎)は[[安芸国]][[広島藩]]12代藩主[[浅野長勲]]の実弟として[[嘉永]]4年([[1852年]])に生まれる。初名は浅野元次郎。[[戊辰戦争]]最中の[[慶応]]4年([[1868年]])18歳で[[備後福山藩]]9代藩主[[阿部正方]]の養子となり、名を正桓と改め5月20日[[福山城 (備後国)|福山城]]へ入り第10代藩主となるって家督を継ぐだが、実際には正方は前年末に死去しておりの事を隠しての入嗣であった。そのため正方の死は翌月6月になって公表された。なお、この強引ともいえる養子縁組は新政府の福山藩存続を許す条件であったといわれる。
 
同年の福山藩は年明け早々から新政府(長州軍)への恭順と新政府軍(芸州軍)の福山入城に始まり、[[伊予国]][[松山市|松山]]への出兵、[[播磨国]][[西宮市|西宮]]の警護、[[大阪府]][[天保山]]砲台の警護など新政府軍への対応に追われたが、正桓も藩主就任直後の[[明治]]元年([[1868年]])9月に[[箱館戦争]]への出兵を命じられた。度重なる兵力動員に藩財政は実質的に破産状態にあったが徳川譜代の負い目から新政府の要求を拒否することはできず、10月2日総督岡田伊衛門、参謀江木鰐水以下696名が[[鞆町|鞆]]から船に乗り函館([[北海道]])へと向かった(この戦いは明治2年([[1869年]])5月まで続いた)。翌、明治2年([[1869年]])2月、正桓は[[版籍奉還]]を願い出て同年8月に福山藩[[知藩事]](藩知事)に任命される。こうした中、正桓は藩政改革を開始し「福山藩職員令」を発布して従来の家老を中心とした藩組織を大参事を中心とした近代的な組織へと改め人事も刷新した。しかし明治4年([[1871年]])7月[[廃藩置県]]により正桓は知藩事を罷免され同時に[[東京府]]への上京を命じられることになった。そして同年9月に正桓が福山を出立しようとしたところ、この上京に反対した民衆が福山城下に集まり一部が暴徒化して藩兵に鎮圧される事件が発生した。しかも騒動はこれで収まらず藩内各地に飛び火し[[打ちこわし]]や放火が相次いで発生した。これに対し正桓は自ら説得に当たるなどし、結局出発は11月まで延期されることになった。
 
度重なる兵力動員に藩財政は実質的に破産状態にあったが、徳川[[譜代大名|譜代]]の負い目から新政府の要求を拒否することはできず、10月2日に総督・岡田伊衛門、参謀・江木鰐水以下696名が[[鞆町|鞆]]から船に乗り、函館([[北海道]])へと向かった(この戦いは明治2年([[1869年]])5月まで続いた)。
[[東京府]][[東京市]][[本郷区]](現在の[[東京都]][[文京区]])に移り住んだ正桓は明治17年([[1884年]])[[伯爵]]になる。明治18年([[1885年]])9月、福山教育義会会長として旧藩校[[誠之館]]の維持に努める。大正3年[[従二位]]。大正3年([[1914年]])死去。享年64。
 
翌明治2年([[1869年]])2月、正桓は[[版籍奉還]]を願い出て、同年8月に福山藩[[知藩事]](藩知事)に任命される。こうした中、正桓は藩政改革を開始し「福山藩職員令」を発布して、従来の家老を中心とした藩組織を大参事を中心とした近代的な組織へと改め、人事も刷新した。
養子として旧姫路藩主酒井伯爵家に入った次男・忠正は農林大臣などを歴任した。
 
しかし明治4年([[1871年]])7月、[[廃藩置県]]により正桓は知藩事を罷免され、同時に[[東京府]]への上京を命じられることになった。そして同年9月に正桓が福山を出立しようとしたところ、この上京に反対した民衆が福山城下に集まり、一部が暴徒化して藩兵に鎮圧される事件が発生した。しかも騒動はこれで収まらず、藩内各地に飛び火して[[打ちこわし]]や放火が相次いで発生した。これに対し、正桓は自ら説得に当たるなどし、結局出発は11月まで延期されることになった。
 
[[東京府]][[東京市]][[本郷区]](現在の[[東京都]][[文京区]])に移り住んだ正桓は明治17年([[1884年]])[[伯爵]]に叙される。明治18年([[1885年]])9月、福山教育義会会長として旧藩校[[誠之館]]の維持に努める。大正3年[[従二位]]。大正3年([[1914年]])死去。享年64
 
大正3年([[1914年]])、[[従二位]]に叙され、同年に死去した。享年64。
 
養子として旧[[姫路藩]]主酒井伯爵家に入った次男・忠正は、[[農林大臣]]などを歴任した。
 
== 外部リンク ==
17 ⟶ 25行目:
* [http://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/ 福山誠之館同窓会]
 
{{備後福山藩主|阿部氏|10代|1868- 1871}}
 
{{DEFAULTSORT:あへ まさたけ}}
[[Category:譜代大名]]
[[Category:幕末の大名]]
[[Category:幕末福山藩の人物]]
[[Category:阿部氏|まさたけ]]
[[Category:浅野氏]]
[[Category:備後福山藩|16|阿10]]
[[Category:日本の伯爵]]
[[Category:1852年生]]