「荒畑寒村」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m +{{日本共産党委員長}}
7行目:
その後共産党は、福本イズムに沿って再建([[第二次共産党 (日本)|第二次共産党]])されるが、結局のところ荒畑は、第一次共産党の解散に賛成した人々([[佐野学]]や[[徳田球一]]など)が再建の中心になっていることを憤り、愛弟子ともいえる[[鍋山貞親]]の説得を泣いて拒否し党の再建には参加しなかった。そして[[山川均]]・[[猪俣津南雄]]らと[[1927年]]に『[[労農]]』を創刊、[[労農派]]の中心メンバーとして非共産党マルクス主義の理論づけを行った。[[1937年]]に[[人民戦線事件]]が起こると、山川・[[加藤勘十]]らとともに検挙。
 
戦後は全金同盟の委員長に就任するとともに[[日本社会党]]の結成に参加。[[1946年]]以降衆議院議員を2期(中選挙区の[[東京都第4区 (中選挙区)|東京4区]]選出)務めた後、1949年1月総選挙では[[社会主義政党結成準備促進協議]](いわゆる山川新党)を母体に無所属で立候補したが落選する。以後評論活動に専念。[[1950年]]12月ソ連の評価をめぐり[[小堀甚二]]と山川均、[[向坂逸郎]]らの間で対立が起きると、小堀の主張に賛成はしなかったが彼が山川新党の実務を担っていたこともあり、小堀に同情して[[1951年]]結成の[[社会主義協会]]には参加しなかった。60年代後半以降には、ソ連派傾向を鮮明にした向坂逸郎・社会主義協会を強く批判した。
 
晩年には「死なばわがむくろを包め戦いの塵に染みたる赤旗をもて」という歌を作っている。