「ARB (バンド)」の版間の差分

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*:5th~6thアルバムを発表。初期の[[ロックンロールオリンピック]]に毎年のように出演していた。
*1983年 - 1984年
*:バンドのリーダーであった田中一郎がツアー中に突然の脱退。その後、ツアーにサポートとして参加していた斉藤光浩が正式加入する。斉藤の加入により、田中時代のギターバンド路線主軸に踏襲しつつも田中時代より若干ポップな楽曲が発表されるようになるが、バンドの方向性に大きな変化はなかった。
*:しかし、ギター交代の束の間、不祥事によりベースのサンジを解雇することになる。その際、KEITHの親友である[[ストラングラーズ]]の[[ジャン=ジャック・バーネル]]が急遽来日し、ベーシストとして一時参加した。7thアルバム「YELLOW BLOOD」にも2曲参加している。その後、オーディションにより岡部滋が正式ベーシストとして加入した。
*1985年 - 1986年
*:石橋はARBの知名度を上げるため、親交のあった俳優・[[松田優作]]が監督する『[[ア・ホーマンス]]』に出演した。その演技が映画業界で認められ、以後のARBは石橋の俳優活動と並行した活動になる。この映画の主題歌として、8thアルバム「砂丘1945年」に収録されている「AFTER '45」が使用された。
*1986年
*:斉藤が脱退し、白浜久が加入。白浜の加入により、それまでの田中~斉藤時代の方向性とは大きく異なり、必ずしもギターを軸としない楽曲、打ち込みを多用した楽曲が発表されるようになる。ライブでも、白浜加入後の楽曲はもちろん、過去の楽曲にも打ち込み要素を加えたアレンジをして演奏していた(「Give me a chance」「BLUE COLOR DANCER」など)。
*1987年
*:打ち込み多用の集大成ともいえる10thアルバム「ROCK OVER JAPAN」を発表。このアルバム発表後に、岡部が脱退。[[シーナ&ロケッツ]]の浅田孟が加入。浅田が加入したころになると、バンドは再びバンドサウンドを基調とした活動に戻っていった。また、シングル「SWEAT, HEART & BRAIN」のカップリングとして、田中時代の楽曲「BAD NEWS」「DO IT! BOY」のアレンジ版がリリースされ、それ以外の過去の楽曲においてもライブで、コード進行の変更、ギターソロのない曲にギターソロを加えたり、またはその逆を行ったり、大胆なアレンジを積極的にしていた。