「観念論」の版間の差分

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[[哲学]]において、'''イデアリスム'''(英:idealism、独語Idealismus、仏語Idéalisme)もしくは '''観念論'''は、さまざまな意味があるが、
認識の妥当性に関する説のひとつで、事物の存在と存り方は、当の事物についてのidea([[イデア]]、観念)によって規定される、という考え方<ref name="iwanami">岩波『哲学・思想事典』</ref>などを指す。
 
Idealismは、日本では訳語が一定せず、存在論については'''[[唯心論]]'''、認識論については'''観念論'''、倫理学説については'''理想主義'''と訳しわけられていた。
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あるいは、{{要出典|date=2010年3月}}[[物質]]よりも[[精神]]、[[理性]]、[[言葉]]に優位性を置く理論のことである。
 
その理論は、思考と外界はお互いにお互いを創造しあうが、そこでは思考が、決定的な役割を持つ、という主張を含んでいる。[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]は、歴史は科学と同じように明確に理性に適ったものでなければならない<!-- (←理性の優位を強調してみます) 合理的なものであるはずだ -->と考えた。進んで、[[ジョージ・バークリ]]<!--や[[アルトゥル・ショーペンハウアー|アルトゥル・ショーペンハウアー]]-->のように、すべて人間が認識するものは思考による観念の所産([[表象]])であると考えるものもある。
 
つまり、観念論とは、観念的もしくは精神的なものが外界とは独立した地位を持っているという確信を表すものである。この主張はしばしば観念的なものが自存し、実在性をもつという主張に結びつく。例えば、[[プラトン]]は、我々が考えることができるすべての性質や物は、ある種の独立した実在であると考えた。まぎらわしいことに、この種の観念論は、かつて[[実在論|実在論(観念実在論)]]と呼ばれた。
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またある思想が観念論に属すかどうかにも、議論が分かれる場合がある。[[イマヌエル・カント]]は『[[純粋理性批判]]』において、我々が世界を空間や時間という形で把握するのは人間認識の[[アプリオリ]]な制約である経験への超越論的制約によるとした。カント自身は(物自体の存在を要請したが故に)これを観念論とは考えなかったが、多くの読者はこれをきわめて観念論的な主張であると考えた。
 
事物よりも認識主体に内在する構成能力などを重視する立場は、西洋近代哲学において顕著であり、またインド思想でもその傾向が存在する<ref name="iwanami">岩波『哲学・思想事典』</ref>。
 
観念論と対比される思想に、[[唯物論]]がある。
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==西洋哲学==
認識の妥当性に関する説のひとつで、事物の存在と存り方は、当の事物についてのidea(観念)によって規定される、という考え方<ref name="iwanami">岩波『哲学・思想事典』</ref>。
 
まず最も知られているのが[[プラトン]]の[[イデア]]論である。これは事物の原型的なものと説明された。
 
[[ルネ・デカルト]]と[[ジョン・ロック]]が、プラトン的なイデアを解釈しなおし、人間の心に内在する事物の似姿としての観念だとした<ref>岩波『哲学・思想事典』p.293</ref>。人間は事物をじかに知るのではなく、観念を通じて間接的に知る、とし、観念なしでは、ものごとについては何ごとも語りえない、とする考え方である<ref name="iwanami293">岩波『哲学・思想事典』p.293</ref>。この[[認識論]]的な意味でもidealismは(西洋では)近代特有の思想である。認識をideaないし表象から出発して説明しようとするならば、イデアリスムのほうが整合的な体系となる<ref name="iwanami293">岩波『哲学・思想事典』p.293</ref>。この意味のイデアリスムは[[レアリスム]]と対比されて用いられる。
 
[[カント]]や[[ドイツ観念論]]においては、「対象というものは、主観に与えられたか主観に本有的に備わっている観念を材料や形式として主観の働きによって構築される現象である」とする説(構成説)が現れた。
 
このidealismが形而上学的な方向に進むと、「事物は意識内にだけ在るものであり、存在するものはつきつめると精神とその様態としてのideaにつきる」とする説([[唯心論]])となる。唯心論ほどまでに先鋭化すると、[[唯物論]]と対立することになる<ref name="iwanami294">岩波『哲学・思想事典』p.294</ref>。
 
このような意識を、個人的で経験的なものと見なす立場もあり、超個人的で規範的なものと見なす立場もあり、それぞれ体系が異なる。前者には[[ジョージ・バークリ|バークリ]]の非物質論や[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]の主観的idealism、[[デイヴィッド・ヒューム]]の現象主義、がある。後者にはドイツ古典哲学の超越論的観念論がある。
 
ただし、意識から出発して物質世界を説明することは困難がつきまとうので、論者は次のような理論戦略を用いることになったという<ref name="iwanami294">岩波『哲学・思想事典』p.294</ref>。
 
*[[神]]を立てて[[宗教]]と結合させる<ref name="iwanami294">岩波『哲学・思想事典』p.294</ref>。
*ideaと事物とを同一視して、[[一元論]]化し、いわば裏返しの[[唯物論]]になる<ref name="iwanami294">岩波『哲学・思想事典』p.294</ref>。
*外界の存在については沈黙する[[懐疑主義]]になる<ref name="iwanami294">岩波『哲学・思想事典』p.294</ref>。
*[[物自体]]を想定し、物自体は不可知である、とする<ref name="iwanami294">岩波『哲学・思想事典』p.294</ref><ref>[[カント]]の採用した戦略</ref>。
*人間に即して考えられていた[[精神]]を絶対的なものに仕立て上げる<ref name="iwanami294">岩波『哲学・思想事典』p.294</ref>。
 
===バークリ===
[[ジョージ・バークリ]]は、外的な世界は完全にideaの複合体でしかない、とする<ref name="keyward">『哲学キーワード事典』p.131</ref>物体的世界は、神が人間に与えた表象の世界でしかないのであり、それ自体としては存在しない、とする。自然の[[法則]]も我々のideaにおいてのみ成立する、とする<ref name="keyward">『哲学キーワード事典』p.131</ref>。
 
===カント===
合理主義的なidealistらは、人間の知性を[[神]]の無限の知性に結び付けて説明し、世界を認識する知性に限界はない、と見なした。
それに対してカントは、そのような合理化には限界があると述べ、決定されないものが残るとし、それが実在する、という[[実在論]]を展開した。外界の諸現象は、カントの場合でも[[現象]]でしかないのだが、神の知性という上部構造は採用せず、人間知性には限界がある、と考えたのである<ref name="keyward">『哲学キーワード事典』p.131</ref>。神という絶対的なものの援護を失った我々の認識ではとらえられない諸現象の根拠を「[[物自体]]」と呼んだ。この物自体は、実在するが、経験の内容にはなりえない、とされ、人間の認識の限界を指し示すことになった<ref name="keyward">『哲学キーワード事典』p.131</ref>。カントによる人間理性の限界の画定によって啓蒙時代が終わりを告げることになったという<ref name="keyward">『哲学キーワード事典』p.131</ref>。
 
==idealismと唯物論の論争==
唯物論が18世紀以降に台頭してくると、idealismと唯物論の議論は激化した<ref name="iwanami294">岩波『哲学・思想事典』p.294</ref>。両者の調停をはかるために、19世紀末からは様々な中性的[[一元論]]が提唱された<ref name="iwanami294">岩波『哲学・思想事典』p.294</ref>。
 
==IdeaとIdeal==
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== 外部リンク ==
* {{PhilP|idealism|Idealism}}
* [[坂部恵]][http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%A6%B3%E5%BF%B5%E8%AB%96/ 「観念論」(Yahoo!百科事典)]
* {{PhilP|idealism|Idealism}}
 
{{DEFAULTSORT:かんねんろん}}