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=== 生の概念 ===
19世紀の前半までは生そのものは、偶然的で否定的な要素として哲学外の事として扱われていた。[[カント]]や[[ドイツ観念論]]を初めとする当時の「本流」の哲学は[[認識論]]、[[実在論]]などをあくまで[[理性]]を中心に見据えて理論を展開しており、基本的に生そのものは構想から外れているといえる。このことを近代哲学の完成者とされる[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]の哲学を例にとってみてみよう。彼は、直接的な[[意識]]から始まり、[[弁証法]]によって相矛盾する対立を止揚しながら、即自から対自、存在から絶対的知識へ発展して[[現象]]の背後にある[[物自体]]を認識し、主観と客観が統合された絶対的精神になると説く。そして、人類の歴史は、絶対精神が弁証法的に発展し、自由を獲得する過程でもあり、理性が自然を克服し、原始的な宗教から啓示宗教が支配する社会を経て自由な国家が成立することによって歴史は終わるとした。その哲学大系においては、歴史の流れの中にある人間の生のみならず、真・善・美といった価値でさえ理性によって最終的に担保されるものであったのである。そこでは生とは、絶対的存在(あるいは神)の体現としての固定的なものにならざるを得ず、「生の哲学」で展開される動的な生とは性質の違うものである。この時代の生の哲学の源流はむしろ当時の哲学の本流とみなされていなかった反啓蒙・反カント主義者たち([[ヨハン・ゲオルク・ハーマン|ハーマン]]や[[フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ|ヤコービ]]など)であり、彼らの思想は理性よりも人間本来のもっている信仰や感情の能力の優位を唱え、生そのものを直接的に捉えようとするきっかけを作るものであった。
 
生の哲学における「生」とは、このような本流哲学に対抗する概念であって極めて文化闘争的なものであり、「生物」としての人間の生といった限られた意味をもつにすぎないものではない。むしろ理性に対する生の優位、つまり理性とは、理性によっては捉えることのできない非合理的な生を実現するための「道具」にすぎないものであるという価値を含んだものなのである。そこでは、生を脅かすものは「病」であるとされたのである。