「ペイシストラトス」の版間の差分

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Tantalos (会話 | 投稿記録)
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彼の父ヒポクラテス<ref>医聖[[ヒポクラテス]]とは別人</ref>([[:en:Hippocrates, father of Peisistratos]])は、[[オリュンピア]]で犠牲を捧げる際に、ひとりでに釜の水が煮え立ち、ラケダイモン([[スパルタ]])の哲学者[[キロン]]によって、妻帯しないか、子があればこれを離縁するよう予言されている。彼はこの勧告に従わず、ペイシストラトスが生まれた。
 
ペイシストラトスは、[[スニオン岬]]を拠点に[[アルクメオン]]家を頂く[[アッティカ]]南部の商人一派(海岸党)と、アッティカ西南部を拠点とする地主の一派(平野党)に対して、農夫などの無産者階級を主体とする高地党を結成した。自らを傷つけて、これを政敵による損害と騙り、国民に護衛部隊を要求し、これを使って[[アテナイのアクロポリス|アクロポリス]]を占拠した。この独裁政権は、海岸党と平野党による追放によってすぐに瓦解したが、両党の抗争を収拾すべく、アルクメオン家の[[メガクレス]]は、独裁権を与える名目でペイシストラトスを呼び戻した。しかし、メガクレスによって再び追放されたため、[[紀元前561年]]、彼は[[テーバイ]]からの義援金と[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]の傭兵、[[ナクソス]]の軍資金と兵隊を得て[[エレトリア]]を出立し、[[マラトン]]に上陸アテナイ軍と対峙した。ペイシストラトスは昼食時を狙ってこれを壊滅し、アテナイの実権を掌握した。また、この時に[[マケドニア]]から多くの鉱夫を連れてきて、当時その存在は知られながら当時のアテナイの技術力では採掘が困難であった[[ラウレイオン]]銀山の採掘を行った。このため、伝承ではアテナイで最初に貨幣を鋳造したのはソロンであるとされているものの、実際に貨幣を鋳造したのはペイシストラトスが最初ではないかと見る説もある。
 
ソロンは、ペイシストラトスの僭主政治を嫌って[[エジプト]]、次いで[[キュプロス]]に亡命し、最終的に[[リュディア]]王[[クロイソス]]を頼って独裁政治を許したアテナイ市民を非難したが、ペイシストラトスは書状を送ってソロンの帰国を促した。