「中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議」の版間の差分

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この第10期3中全会で採択された路線は[[二つのすべて]]の継続であり、鄧小平もこれを批判することはなかったが、1978年5月には『実践は真理を検証する唯一の基準である』と題する文章を発表し、「二つのすべて」批判を開始。また、[[六十一人叛徒集団事件]]など建国前からの冤罪事件を[[胡耀邦]]([[中国共産党中央組織部|党中央組織部長]])に担当させ、「毛沢東の決定を覆してはならない」とする「二つのすべて」派に対する突破口とした。
 
[[1978年]][[11月10日]]に始まった党中央工作会議で、陳雲・[[全国人民代表大会]]常務副委員長(党中央委員)は、[[廬山会議]]で失脚し非業の死を遂げた[[彭徳懐]]や文革で失脚した者の名誉回復、[[四五天安門事件|第一次天安門事件]]の再評価と、数々の冤罪を作り出した張本人で、[[1975年]]の死去時に「プロレタリア革命家」とされた[[康生]]の再評価をすることを要求、出席者はこぞって支持を表明した。華国鋒はついに鄧小平批判の誤りと、彭徳懐、[[陶鋳]]、[[薄一波]]、[[楊尚昆]]ら「反毛沢東」「反文革」とされて失脚した幹部の名誉回復を行い、康生とその部下で[[中華人民共和国公安部|公安部長]]だった[[謝富治]]に対する審査が始まった。また、汪東興(党副主席兼党中央弁公庁主任)や[[呉徳]](党政治局員兼[[北京市]]革命委員会主任)ら華国鋒体制を支える幹部が批判を受けた。華国鋒、汪東興は自己批判を強いられ、「二つのすべて」理論とその追従者が実権を失うことになった。
 
== 3中全会の決定事項 ==
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*[[彭徳懐]]、[[陶鋳]]、[[薄一波]]、[[楊尚昆]]の名誉回復。(なお文化大革命の最大の標的だった[[劉少奇]]の名誉回復はなされなかった。)
*中央の指導者も含め党員は個人的な意見を「指示」と称してはならない。全ての党員に対し上からの指導に対して中央常務委員会にそれを批判する意見を提出する権利を保障する。
 
 
これらにより、階級闘争から経済建設に指導方針が転換され、中国は鄧小平を核として第二世代の指導の下、中国は改革開放路線を採用、中国の特色を持つ[[社会主義市場経済]]の建設を進めることになった。
 
なお、これらの決定は、先立つ1978年[[12月13日]]トウ小平講話の路線を集約させたものだった。
 
==人事異動==
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*[[汪東興]] 中央弁公庁主任、中央警衛局長、[[8341部隊]]政治委員、党委書記、毛沢東著作編纂委員会弁公室主任(中央委員会副主席、中央政治局常務委員には留任)
*[[呉徳]] 政治局委員(すでに11月の段階で北京市革命委員会主任を解任)
 
==外部リンク==
*[http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-02/05/content_2550304.htm 中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議公報]新華社サイト、「新華資料」
 
 
==関連項目==
*[[建国以来の党の若干の歴史問題についての決議]]
*[[二つのすべて]]
 
==外部リンク==
*[http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-02/05/content_2550304.htm 中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議公報]新華社サイト、「新華資料」
 
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