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関ヶ原の戦いの際は東軍に与し、西軍の雄である[[上杉氏]]の侵攻を退け([[慶長出羽合戦]])戦後、その恩賞で加増され、[[置賜郡]]を除く現在の[[山形県]]全土と[[秋田県]][[由利本荘市]]周辺({{和暦|1602}}、[[佐竹氏]]との領土交換により[[雄勝郡]]・[[平鹿郡]]と引き換えた)を手に入れ、計57万石(実高は100万石とも称する)を領する大大名になり、二度目の最盛期を迎える。[[江戸時代]]に入ると、義光の後継をめぐって争いが起き、長子の[[最上義康|義康]]の暗殺事件が起こる。以降も家中の内紛はやまず、義光の孫[[最上義俊|義俊]]の代には[[最上騒動]]が起こった。
 
義俊は家中の信望を失っており、{{和暦|1622}}年]]、最上氏は騒動を理由に幕命により[[改易]]されることとなった。宗家の[[斯波武衛家]]が滅亡していたので、斯波氏の流れを汲む最上氏は断絶を惜しまれ、[[近江国]]に1万石の[[知行]]を改めて与えられた。しかし義俊の死後、子の[[最上義智|義智]]が幼少であったために5000石に減知され、子孫は[[旗本]][[交代寄合]]として存続した。
 
義光の4男[[山野辺義忠]]は最終的には[[水戸藩]]の[[家老]]に抜擢され、子孫は代々世臣として藩政に重きをなした(テレビ時代劇「[[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]]」において[[大友柳太朗]]・[[高松英郎]]・[[丹波哲郎]]らが演じた、水戸藩の口うるさい国家老「山野辺兵庫」は、義忠の子の[[山野辺義堅|山野辺兵庫頭義堅]]をモデルにしている)。