メインメニューを開く

差分

m
ルーズベルトは「イギリスもしくはソビエト政府が、イランの独立や領土に何の意図も持たないと言うイラン政府への声明」によりシャーを安心させた。しかし、後にソビエトは北部で州の独立主義者の支援を行ない、その一方で、アメリカと英国は[[1953年]]の[[アーバーダーン危機|イラン石油国有化運動]]の間に、民主主義的に選ばれたイランの[[モハンマド・モサッデグ]]首相の転覆を支援した。
 
戦いは8月25日の夜明けに、[[イギリス海軍]][[ショアハム級スループ ]]「[[ショアハム (スループ)|ショアハム]] (HMS Shoreham) が[[アーバーダーン]]港を攻撃することで始まった。アーバーダーンに停泊していた[[イラン海軍]][[バブープ 級砲艦]]「パラング (Palang) はショアハムによって撃沈され、残った船は破壊されるか捕獲された。抵抗を準備する時間も無く、アーバーダーンの石油産出施設は、事前に移動していた[[バスラ]]から[[シャットゥルアラブ川]]を下ってきた艦艇(武装ヨット シーベル (Seabelle) など)から上陸してきた2個大隊によりその日のうちにイギリスの手に落ちた。小部隊が[[武装商船]][[カニンブラ (武装商船)|カニンブラ]] (HMAS Kanimbla) から、石油生産設備と港を保護するために、[[バンダレ・エマーム・ホメイニー|バンダレ・シャープール]]に上陸した。英国空軍は空軍基地と通信施設を攻撃した。また、オーストラリアのスループ [[ヤラ (スループ)|ヤラ]] (HMAS Yarra)]]」 が[[ホラムシャハル]] (Khorramshahr) のイラン海軍基地を攻撃し、イランの[[バブープ 級砲艦]]「バブル (Babr) を沈めた。バスラからイギリスとインドの部隊は、[[ガスレ・シェイフ]]([[8月25日]]に占領)へ前進し、シャーが戦闘の終結を命令した[[8月28日]]までに、[[アフヴァーズ]](Ahwaz)に到達した。イギリスとインドの8個大隊は[[ウィリアム・スリム]]少将(William Slim)の指揮下で、[[ハナーキーン]](Khanaqin、[[バグダード]]の100マイル北東で、[[バスラ]]から300マイル)から、ナフテ・シャー油田を通り、[[ケルマーンシャー]]と[[ハマダーン]]へ抜けるパーイェ・ターフ渓谷に向かって前進した。防衛部隊が夜に撤退した後、パーイェ・ターフは[[8月27日]]に占領された。[[8月29日]]のケルマーンシャーに対する攻撃は計画されたものの、防御部隊が降伏文章の締結を行なうことを要求したため、中止された<ref>Compton Mackenzie, pp130-136</ref>。
 
ソビエト軍は北から侵入し、[[マークー]]に向かって前進した。マークーは爆撃により防衛を破壊された。同様に[[カスピ海]]の沿岸[[バンダレ・パフラヴィー]]にソビエト軍が上陸した。この時、ソビエト海軍は、[[同士撃ち]]を行なうという事件が発生した。海軍の作戦で、2隻のイラン軍の軍艦が沈み、砲艦4隻がイギリス海軍により捕獲された。6人のペルシア人の兵士は銃殺され、イギリス軍とインド軍の損害は死者22人、負傷者42人であった。
 
イランを助けるために何者も介入せず、イランの抵抗はソビエトとイギリスの戦車と歩兵により速やかに圧倒されて無効化された。イギリス軍とソビエト軍は、[[8月30日]]に[[センナ]](Senna、[[ハマダーン]]の100マイル西)と、[[8月31日]]に[[ガズヴィーン]]([[テヘラン]]の100マイル西でハマダーンの北東200マイル)で遭遇した。イランは敗北し、油田は略奪され、価値ある[[イラン縦貫鉄道]]は連合国の手に落ちた。輸送手段の欠如により、イギリス軍はハマダーンとアフヴァーズの先に軍を進めないことに決めた。その間、イラン新首相[[モハンマド・アリー・フォルギー]]は、ドイツの大使とその人員がテヘランを去り、[[ドイツ]]と[[イタリア]]と[[ハンガリー]]と[[ルーマニア]]の大使館は閉鎖し、残ったドイツ国民は、イギリスとソビエトの当局に引き渡されることに同意した。
5,994

回編集