削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
11行目:
[[大倉集古館]]の理事長職を長年つとめるなど文化事業にも功績があり、とくに近代日本絵画を[[パトロン]]として、[[1930年]]には大金を投じてローマ開催日本美術展を後援して、[[横山大観]]をはじめとする画家たちの活動を支援するとともに、海外に紹介した。オペラ歌手[[藤原義江]]を援助し海外へ修行に行かせ、帰国後は帝国ホテルに住まわせた。日本屈指の趣味人でもあり、[[囲碁]]、[[音楽]]、[[舞踊]]、[[ゴルフ]]、[[モータースポーツ|カーレース]]と多彩な才芸を発揮した。[[義太夫]]、[[地唄]]、[[長唄]]、[[常磐津]]、[[清元]]、[[河東節]]、[[新内]]、[[小唄]]などにも没頭し、昭和初期には新邦楽の一種である[[大和楽]](やまとがく)を創設した。[[尺八]]にも夢中になり、フルートと尺八を合体させた新楽器[[オークラウロ]]を開発した。
 
[[慶應義塾大学]]からを卒業後[[1900年]]、[[イギリス]]・[[ケンブリッジ大学]]に留学。間もなく自動車の操縦はもとより修理技術まで習得、[[サリー (イングランド)|サリー]]のブルックランズ・サーキットで最初に開催されたカーレースにおいて、イタリア製[[フィアット]]120馬力レーシングカーを操縦して30マイルを争う「モンターギュ・カップ・レース」に平均速度80マイル以上を出して2位入賞([[1907年]]7月6日)。<ref>参戦のきっかけはドイツ人留学生から、「日本は戦争には強いかもしれないが野蛮国だから自動車なぞ無いんだろう」とからかわれたためと言う。また大倉は同じフィアットで日本でもアメリカの曲技飛行家・マースの「赤鬼号」と1911年5月3日に川崎競馬場で競走して勝利を収めている。ところがその帰途、メカニックが電柱にこのフィアットを衝突させて大破し、車は使用不能となったという。</ref>同年、お土産の自動車5台とともに帰国、日本初の自動車専門の輸入会社・[[日本自動車会社|日本自動車]]を設立した。その後も自動車通として知られ、オーナードライバー団体「日本自動車倶楽部」を設立、当局による自動車関連制度の策定にも協力、[[皇室]][[御料車]]の選定や買い付けを任されたこともある。
[[File:大倉喜七郎男爵顕彰碑.jpg|thumb|[[大倉山ジャンプ競技場]]に建立された「大倉喜七郎男爵顕彰碑」]]
[[1922年]]、父親に代わり[[帝国ホテル]]会長に就任。[[1931年]]、私財を投じて[[大倉山ジャンプ競技場]]を建設。[[1972年]][[札幌オリンピック]]90m級ジャンプの会場として使用された。