「北但馬地震」の版間の差分

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'''北但馬地震'''(きたたじまじしん)は、[[1925年]](大正14年)[[5月23日]]11時9分に[[兵庫県]]但馬地方北部で発生した[[地震]]。地震の規模は[[マグニチュード]]6.8。この地震による災害を'''北但大震災'''という。
 
[[震度|最大震度]]は[[兵庫県]]の豊岡、城崎で観測された'''震度6'''(当時の震度階級による最大震度)。その他、[[兵庫県]]、[[京都府]]、[[滋賀県]]で震度5、[[岡山県]]、[[鳥取県]]、[[和歌山県]]、[[三重県]]で震度4をそれぞれ観測ちなみに、当時の震度階級では震度6までしかなかった。震源は[[円山川]]河口付近と考えられている。
 
[[円山川]]流域、特に豊岡、城崎の町に甚大な被害をもたらした。揺れを感じる直前には円山川の河口付近において海側から大砲のような音が断続的に聞こえ、地震発生時には豊岡の町で地面が16秒間に4回も強く波打ったという。当時の建築物は木造が大半であったために地震の初動で建物の多くは一気につぶれ、昼時ということで食事準備のために火を炊いていた民家や旅館では家屋倒壊に伴って瞬く間に火の手が上がった。
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地震後に発生した火災により豊岡では町の半分が焼失し、城崎では272名(人口比で8.0%)という大変多くの方が亡くなった。特に亡くなった方の大半は食事準備中に倒壊した建物に挟まれたまま猛火に包まれ命を落とした女性たちであり、「北但大震災の最大の犠牲者は城崎の女性である」とまで言われている。
 
但馬北部、円山川流域のこの地域は三方を山地に囲まれた上に残る北部は海に隔てられているため元々陸の孤島に近かった上地震により交通網は寸断されたため周辺の町の[[消防団]]や[[大日本帝国陸軍|陸軍]]・[[大日本帝国海軍|海軍]]の救護隊が到着するまでに丸一日かかり共助の初期活動が著しく滞った。しかしそんな中豊岡[[旧制中学校|中学校]]の生徒約500名が倒壊家屋の中からの生存者救助や消火活動などに従事し、臨時の救助隊として大きな活躍をした。
 
この地震は、関東大震災やその後に関東で地震が頻発したことによって広まった「地震は関東で起きるもの」という思い込みを戒めるものとなった。この地震後、豊岡や城崎では道路の幅を広げたり防火建築物の割合を増やすなど、地震・火事に強い町を目指して復興を成し遂げた。