「鍵屋の辻の決闘」の版間の差分

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寛永9年([[1632年]])、忠雄が[[天然痘|疱瘡]]のため急死した。よほど無念だったのか、死に臨んで又五郎を討つよう遺言する。子の[[池田光仲|光仲]]が家督を継ぎ、[[池田氏|池田家]]は[[因幡国]]鳥取へ国替えとなる。幕府は、[[喧嘩両成敗]]として事件の幕引きをねらい、旗本たちの謹慎と又五郎の江戸追放を決定する。しかし、源太夫の兄・渡辺数馬は仇討ちをせざるをえない立場に追い込まれた。戦国時代よりの仇討ちの習いとしては兄が弟の、父祖が子孫の、主君が配下の仇を討つことは異例なことであったが、主君忠雄の遺言による上意討ちの内意を含んでいた。数馬は国替えに従わず、仇討ちのために脱藩する。
 
剣術が未熟な数馬は姉婿の[[郡山藩]]剣術指南役[[荒木又右衛門]]に助太刀を依頼する。数馬と又右衛門は又五郎の行方を捜し回り、寛永11年([[1634年]])11月に又五郎が[[奈良]]の旧郡山藩士の屋敷に潜伏していることを突き止める。又五郎は危険を察し、再び江戸へ逃れようとする。数馬と又右衛門は又五郎が伊賀路を通り、江戸へ向かうことを知り、道中の鍵屋の辻で待ち伏せすることにした。又五郎一行は又五郎の叔父で元郡山藩剣術指南役[[河合甚左衛門]]、妹婿で槍の名人の[[桜井半兵衛]]などが護衛に付き、総勢11人に達した。待ち伏せ側は数馬と又右衛門それに門弟の[[岩本孫右衛門]]、[[河合武右衛門]]の4人。
 
11月7日早朝、待ち伏せを知らず、鍵屋の辻を通行する又五郎一行に数馬、又右衛門らが切り込み、決闘が始まる。孫右衛門と武右衛門が馬上の桜井半兵衛と槍持ちに斬りつけ、半兵衛に槍が渡らないようにした。又右衛門は馬上の河合甚左衛門の足を斬り、落馬したところを切り伏せた。次いで、又右衛門は孫右衛門と武右衛門が相手をしていた桜井半兵衛を打ち倒す。このとき武右衛門が斬られて命を落としている。頼みとしていた河合甚左衛門、桜井半兵衛が討ち取られたことで、又五郎側の多くは戦意を喪失し、逃げ出してしまった。