「牧野忠利」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
| 氏名 =牧野 忠利
| 画像 =
| 画像サイズ =
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| 死没 =[[宝暦]]5年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]([[1755年]][[8月31日]])
| 改名 =
| 別名 =[[幼名]]吉五郎
| 諡号 =
| 神号 =
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| 氏族 =[[牧野氏]]
| 父母 =父:[[牧野貞通]]、母:本庄氏<br>養父:''[[牧野忠敬]]''
| 兄弟 =牧野忠敬、[[牧野貞隆|貞隆]]、[[牧野貞長|貞長]]、'''牧野忠利'''、<br>''[[牧野忠寛|忠寛]]''(公式系図上、実弟)
| 妻 =正室:茂姫(初め逸姫。公式上、[[本多康桓]]の娘。長岡藩の史料では実は[[牧野忠周]]長女)
| 子 =養子:弘姫(実は養家側の叔母。[[伊達村賢]]婚約者)鏐姫(実は養家側の叔母。[[太田資愛]]正室)、''牧野忠寛''
| 特記事項 =
}}
 
'''牧野 忠利'''(まきの ただとし)は、[[江戸時代]]の[[大名]]。[[越後長岡藩]]の第7代藩主。長岡藩系牧野家8代。
== 経歴 ==
享保19年(1734年)9月27日、[[日向国|日向]][[延岡藩]]主・牧野貞通の八男として延岡にて生まれる。ちなみにこの翌日に実父は[[奏者番]]となる。
 
== 経歴生涯 ==
[[延享]]5年6月([[1748年]])、越後長岡藩第6代藩主で長兄である牧野忠敬が嗣子なく死去。当時[[京都所司代]]であった実父の貞通とともに[[京都]]にいた忠利は急遽[[江戸]]に下向して[[寛延]]元年8月(1748年)に長岡藩[[江戸藩邸]]に入り、[[末期養子]]として、長岡藩主の[[家督]]を相続し藩主となった。<br />
享保19年(1734年)9月27日、[[日向国|日向]][[延岡藩]]主・牧野貞通の八男として[[延岡市|延岡]]にて生まれる。ちなみにこの翌日に実父は[[奏者番]]となる。
同年12月に従五位下、駿河守に叙任する。なお、長岡藩史料の「御附録」では実年齢は15歳であるが、「内慮あって」17歳で幕府に届けているので、「[[寛政重修諸家譜]]」では享保17年([[1732年]])出生扱いとなっている。ちなみに17歳は末期養子が原則許可される最低年齢である。<br />
 
[[延享]]5年6月([[1748年]])、越後長岡藩第6代藩主で長兄である[[牧野忠敬]]が嗣子なく死去した。当時[[京都所司代]]であった実父の貞通とともに[[京都]]にいた忠利は急遽[[江戸]]に下向して[[寛延]]元年8月(1748年)に長岡藩[[江戸藩邸]]に入り、[[末期養子]]として長岡藩主の[[家督]]を相続し藩主となった。<br />
 
同年12月に従五位下、駿河守に叙任する。なお、長岡藩史料の「御附録」では実年齢は15歳であるが、「内慮あって」17歳で幕府に届けているので、「[[寛政重修諸家譜]]」では享保17年([[1732年]])出生扱いとなっている。ちなみに17歳は末期養子が原則許可される最低年齢である。<br />
寛延3年([[1750年]])に公式上は[[膳所藩]]主[[本多康桓]]の娘となっている[[牧野忠周]]の長女である茂姫と婚約する。宝暦4年([[1754年]])に[[三蔵火事]]で全焼した[[長岡城]]本丸が再建完了する。宝暦5年6月23日(1755年)に茂姫と婚礼となるが同年7月24日に22歳の若さで他界した。
 
寛延3年([[1750年]])に公式上は[[膳所藩]]主[[本多康桓]]の娘となっている[[牧野忠周]]の長女である茂姫と婚約する。宝暦4年([[1754年]])に[[三蔵火事]]で全焼した[[長岡城]]本丸が再建完了する。宝暦5年6月23日(1755年)に茂姫と婚礼となるが同年7月24日に22歳の若さで他界した。
家督は公式上の異母弟(実は忠周実子、正室茂姫の実弟)である忠寛が継いだ。墓所:[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]三田の[[済海寺]]。のち[[新潟県]][[長岡市]]の[[悠久山]]に改葬。
 
家督は公式上の異母弟(実は忠周実子、正室茂姫の実弟)である[[牧野忠寛|忠寛]]が継いだ。墓所[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]三田の[[済海寺]]。のち[[新潟県]][[長岡市]]の[[悠久山]]に改葬。
 
== 人物 ==
*1982年の済海寺からの改葬の際の遺骨調査によると、左[[大腿骨]]による推定身長は168.2cmと2cmで当時としてはかなり長身としている。ちなみに兄の忠敬は165.9cm9cmで、弟とも養弟といわれ人類学上は忠周の子の可能性が高い忠寛は162cm162cmである。この調査では遺骨形状が忠敬と同系統である一方で忠寛とは異質であるとしている。
*[[儒学]]を小林海鴎から学び、[[歌道]]は[[加茂真淵]]から学び、和歌を2000首以上残したという。また漢詩や俳句、絵も残す趣味人であった。学問や絵画など教養に優れた名君として将来を嘱望されていたが、生来から病弱であった。
*家譜では「義理通博にして、喜怒色にあらわさず、能く人を容れまた諫を容る」とある。また忠利の近臣が忠利の行状を記録した「賢蹟秘鑑」という史料がある。
 
== 参考文献 ==
#* 港区済海寺遺跡調査団(団長[[鈴木公雄]])「港区三田済海寺 長岡藩主牧野家墓所発掘調査報告書」(1986年・東京都港区教育委員会)
#* [[続群書類従]]完成会「[[寛政重修諸家譜]]・第6」
#* 「[[長岡市]]史」(1931年)
 
 
{{越後長岡藩主|牧野氏|7代|1748- 1755}}
 
{{デフォルトソート:まきの たたとし}}
[[Category:牧野氏|たたとし]]
[[category:江戸の大名越後長岡藩主|まきのたたとし*07]]
[[category:譜代大名|まきのたたとし]]
[[Category:1734年生|まきのたたとし]]
[[Category:1755年没|まきのたたとし]]