「牧野忠訓」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 牧野 忠訓
| 時代 = [[江戸時代]]末期([[幕末]]) - [[明治時代]]前期
| 生誕 = [[天保]]15年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]([[1844年]][[9月26日]])
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| 藩 = [[越後長岡藩]]主
| 氏族 = [[本庄氏]]→[[牧野氏]]
| 父母 = 父:[[松平宗秀]]、母:[[大久保忠真]]の7女・偶子<br/>養父:''[[牧野忠恭]]''
| 兄弟 = [[松平宗武]]、'''忠訓'''、[[朽木綱鑑]]
| 妻 = 正室:牧野忠恭の次女・'''つね子'''
| 子 = 養子:'''''[[牧野忠毅|忠毅]]'''''
| 特記事項 =
}}
 
'''牧野 忠訓'''(まきの ただくに)は、[[江戸時代]]の[[大名]]。[[越後長岡藩]]の第12代藩主。長岡藩系牧野家宗家13代。
 
== 生涯 ==
[[天保]]15年([[1844年]])8月15日、[[丹後国|丹後]][[宮津藩]]主・[[松平宗秀]]の四男として江戸で生まれる。[[安政]]5年([[1858年]])12月、長岡藩の第11代藩主・[[牧野忠恭]]の養嗣子となり、[[文久]]元年([[1861年]])12月に従五位下、玄蕃頭に叙任する。[[慶応]]3年([[1867年]])7月11日、忠恭が[[隠居]]したため[[家督]]を継いで藩主となり、駿河守に転任する。しかし忠恭同様、忠訓も[[家老]]格の[[河井継之助]]に厚い信任を置き、藩の財政・軍制改革や民政などは全て河井に任せていた。
 
慶応4年([[1868年]])、[[戊辰戦争]]が起こると、忠訓は河井と共に戦争回避のため、旧幕府と新政府の双方と距離を置きながら、公武調和の建言書を新政府に提出する。さらに河井自身は新政府の北越平定軍に乗り込んで停戦を求めたが、これらは全て新政府によって握りつぶされてしまった。このため忠訓は5月4日、河井と共に[[奥羽越列藩同盟]]に参加して新政府軍と戦うことになる。河井の優れた指揮の前に[[榎峠の戦い]]で新政府軍は一時圧倒されるが、結局圧倒的な物量を誇る新政府軍の前に敗れ5月19日[[長岡城]]は落城し、忠訓は忠恭らと共に[[会津]]に逃れた。
 
しかし7月24日、河井率いる長岡藩兵が沼沢地[[八町沖|八丁沖]]を渡るという奇襲作戦で、長岡城を再び奪還した。ところがこの奇襲作戦で河井が重傷を負ったため、長岡軍の士気は著しく低下し、7月29日には再び新政府軍によって長岡城は奪われた。忠訓や河井らは会津に逃れたが、ここで河井は傷がもとで死去してしまった。そして忠訓も[[仙台藩]]に逃れた末の9月23日に、遂に新政府軍に降伏したのである
 
新政府に逆らった逆賊として、忠訓は謹慎処分に処された上、長岡藩は所領、官位共に没収とされてしまった。しかし牧野氏が名族であることも考慮され、12月22日忠訓は藩主の座を廃され、代わって忠恭の四男・[[牧野忠毅|忠毅]]を藩主して2万4000石に減知の上第13代藩主となること存続を許されたため、長岡藩は再び存続することとなったのである
 
忠訓は明治2年([[1869年]])9月に罪を許されて謹慎を解かれた。そしての後は観山と号した。明治5年([[1872年]])には従五位に復することも許された。明治8年(1875年)6月16日、長岡で死去した。享年32。
 
{{越後長岡藩主|牧野氏|13代|1867年 - 1868年}}
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[[Category:本庄氏]]
[[Category:牧野氏|たたくに]]
[[category:江戸の大名越後長岡藩主|*13]]
[[category:譜代大名]]
[[Category:幕末の大名]]