「磯貝正義」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
2行目:
 
== 略歴 ==
[[岐阜県]]土岐郡時村([[瑞浪市]]土岐町)に生まれる。・磯貝謙造、母長男として生まれる。磯貝家は[[岩村藩]][[大給松平家]]家臣で、母方の実家伊東家は長百姓の家柄。磯貝家は祖父や叔父が[[製糸工場]]を経営しており、父の謙造は小学校校長。
 
[[岐阜県立大垣北高等学校|岐阜県大垣中学校]]、[[第八高等学校 (旧制)|第八高等学校]]を経て、[[1936年]](昭和11年)に[[東京帝国大学([[|東京帝国大学]]文学部国史学科を卒業し、大学院へ進む。大学時代は古代史学を専攻し[[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]に学び、[[卒業論文]]は「律令時代に於ける地方政治、特に郡司を中心として」。卒業論文の研究テーマはその後も継続し、昭和53年には『郡司及び采女制度の研究』として結実する。
 
[[1938年]](昭和13年)には同大学院を満期退学し、当時の[[文部省]]に勤務し、文部省宗務局保存課・宗務課に所属する。戦後、1946年(昭和21年)に山梨県へ移り、[[山梨師範学校]]教授、[[山梨大学]]教育学部教授を歴任。その間に図書館長や教育学部長などの役職をつとめた。[[1978年]]に定年退職し名誉教授となり、山梨県立考古博物館の初代館長や武田氏研究会の会長を務める。また、『[[山梨県史]]』の編纂においては編纂委員会委員長や古代部会会長を務めた。96歳で死去。
10行目:
専門は日本[[古代史]]で、山梨大学時代から古代史領域から発展した[[甲斐源氏]]および[[武田氏#甲斐武田氏|甲斐武田氏]]研究へと移る。野口賞を受賞した『甲斐源氏と武田信玄』は学術的な史料批判に基づき甲斐源氏の発祥から信玄期の治世、[[川中島の戦い]]に至る総合的な武田氏研究を反映した定本として評価されている。また、『山梨県の歴史』で県史を一般にも紹介し、『[[甲陽軍鑑]]』をはじめ『王代記』『[[向嶽寺|塩山向岳禅菴小年代記]]』など武田氏研究における史料の刊行にも携わっている。昭和35年には山梨県文化財調査委員、昭和51年からは文化財保護審議会長となり、文化財保護・史跡整備にも携わる。
 
また、[[靖国神社問題]]や[[建国記念日]]の問題、[[歴史学]]と[[歴史教育]]の関係など[[社会問題]]にも言及している。
 
1984年叙[[勲等|勲三等]]授[[旭日章|旭日中綬章]]。2008年叙[[正四位]]。