「アマチュアリズム」の版間の差分

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ブランデージをIOC第5代会長、キラニン男爵をIOC第6代会長に修正
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{{出典の明記|date=2011年11月}}
'''アマチュアリズム'''とは、[[近代オリンピック|オリンピック]]運動の創始者である[[ピエール・ド・クーベルタン]]が、その運動の理念として提唱した思想で、「オリンピックの出場者は、[[スポーツ]]による金銭的な報酬を受けるべきではない」とする考え方。
 
'''アマチュアリズム'''({{lang-en|amateurism}})とは、[[近代オリンピック|オリンピック]]運動の創始者である[[ピエール・ド・クーベルタン]]が、その運動の理念として提唱した思想で、「オリンピックの出場者は、[[スポーツ]]による金銭的な報酬を受けるべきではない」とする考え方。
 
長らくオリンピックやスポーツ界において支配的な思想であったが、[[1970年代]]以降はスポーツそのもの、またそのスポーツを行う選手に必然的に生まれる特異性(大きくは実力であり、それ以外にも選手自身とは関係無いアイドル性、スター性など)を金銭に変換する行為を排除しようとした元来の層と、スポーツ技術や方法論を金銭に代替し結果的にスポーツそのものの技術や意識の向上を計ろうとしたスポーツ界の現実とは適合しなくなり、2008年現在、オリンピック憲章からは「アマチュア(リズム)」という単語は削除されている。世界的なスポーツ界の流れとしても事実上存在しないに等しいが、日本国内においては、従来「[[アマチュア]]」の領域とされてきたスポーツ界の関係者([[高校野球]]や[[社会人野球]]、[[ラグビー]]、[[ボクシング|アマチュアボクシング]]など)には今でもこの言葉や思想を用いる人物も根強く存在する。
 
== 起源 ==
スポーツを行う資格を限定する規定は[[19世紀]]の前半に、[[イギリス]]で始まったとされる。最初のものといわれるのは[[1839年]]の「[[ヘンリー・レガッタ]]組織委員会」の規定で、その中では出場者を大学・[[パブリックスクール]]・陸海軍[[士官]]・アマチュアクラブに限定していた。これと同じような規定が他の競技でも作られたが、その中には肉体労働者を排除するものが少なくなかった。これらは、当時スポーツ界の中心だったブルジョアジーによる労働者階級の排除を目的とするものである。彼らが自らを[[アマチュア]]と呼んだことから、アマチュアやアマチュアリズムは身分・職業の差別に発するものであるという批判を後世受けることとなった。しかし、スポーツの大衆化が進むに連れて職業差別的な内容は19世紀後半には多くの規定から削除された。
 
クーベルタンはこうしたアマチュアの思想に準拠する一方、[[古代オリンピック]]においては当初勝者は月桂の冠以外の栄誉を受けなかったことに範を取り、オリンピックの参加者はスポーツによる金銭的な報酬を受けるべきではないとした。
[[IOC]]は[[1901年]]にアマチュア規定を統一した。それによるとアマチュアでないものとして 
# 金のために競技するもの 
# プロ選手とともに競技するもの 
# 体育教師・トレーナー 
# マネキン的競技者
があげられた。
このうち、3の体育教師・トレーナーについては各国からの不満が相次ぎ、1905年には条件付きでアマチュア認定されることとなった。
 
== ジム・ソープ事件 ==
初期のオリンピックにおけるアマチュアリズムに関わる事件としては、アメリカの陸上競技選手だった[[ジム・ソープ]]のケースが挙げられる。[[1912年]]の[[ストックホルムオリンピック]]の[[十種競技]]と[[五種競技]]の金メダリストとなったソープは、野球の[[マイナーリーグ]]でのプレー歴があった(詳細はソープの項目を参照)ことが大会終了後明るみに出たため、翌1913年に金メダル剥奪・記録抹消という厳しい処分を受けた。(6969年後の[[1982年]]にIOCはソープの復権を決定し、金メダリストとして認定された。ソープの死去から29年後のことである
 
== 休業補償問題 ==
労働者階級の選手が大会に出場する場合、その間の賃金を補償すべきかどうかという点が、早い時期から問題になっていた。この件に関し、[[国際サッカー連盟]]はそうした補償を行った選手もアマチュアであると認定したが、IOCはこれを認めず、それが原因で[[1932年]]の[[ロサンゼルスオリンピック (1932年)|ロサンゼルスオリンピック]]においてはサッカーが実施されないという事態を招いた。IOCは長い議論の末に[[1962年]]の憲章改正で、オリンピックの参加選手に対する休業補償を認めるに至ったが、これは同時にプロ容認への第一歩でもあった。
 
== アベリー・ブランデージとアマチュアリズムの変容 ==
第5代IOC会長(1952-72年)を務めた[[アベリー・ブランデージ]]は、原理主義的なアマチュアリズムを唱え、「ミスター・アマチュア(リズム)」と呼ばれた。しかし、皮肉なことに彼の在任中にスポーツを取り巻く環境は大きく変わり、アマチュアリズムとの乖離が進行した。
 
彼がIOC会長に就任した年に開催された[[ヘルシンキオリンピック]]から[[ソビエト連邦|ソ連]]がオリンピックに参加する。このソ連をはじめとする東欧の社会主義諸国は、それらの国においては興行としてスポーツを行う者がいないため、スポーツ選手はすべてアマチュアであると主張していた。しかし、実際には国家によって選抜されたメンバーを専門的にトレーニングするシステムが作られており、彼らはもっぱらトレーニングのみを行っていた。事実上プロに等しいこうした選手は「ステート・アマ」と呼ばれるようになる。また、上記の休業補償を認めたことから、西側の選手も日常的にスポーツしか行っていない者が多くを占めるようになり、[[1971年]]のIOC総会では[[ミュンヘンオリンピック]]の組織委員長から、すべての国の選手が「[[ステート・アマ]]」化しているという質問状が提出されるに至った
また、上記の休業補償を認めたことから、西側の選手も日常的にスポーツしか行っていない者が多くを占めるようになり、[[1971年]]のIOC総会では[[ミュンヘンオリンピック]]の組織委員長から、すべての国の選手が「[[ステート・アマ]]」化しているという質問状が提出されるに至った。
 
しかし、ブランデージはなおもアマチュアリズムの維持にこだわった。アルペンスキーを中心に、用具メーカーからの供与とその実質的な宣伝を選手が行っていた冬季大会について彼は批判的であり、冬季オリンピックは将来廃止されるべきであると主張していた。そして、IOCは[[札幌オリンピック]]の際に、オーストリアのアルペンスキー選手である[[カール・シュランツ]]に対して、「名前や写真を広告に使わせた」という理由でアマチュア資格違反とみなし、開会式の前に選手村から追放する処分を行った。しかし、これは多くの目には見せしめの処分と映り、結果的にこの年で退任したブランデージの最後のあだ花となった。
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