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'''下毛野 根麻呂'''(しもつけぬ の ねまろ)は、[[奈良時代]]の人物。
'''下毛野 根麻呂'''(しもつけぬ の ねまろ、神亀4年(727年) - [[延暦]]18年[[9月11日 (旧暦)|9月11日]]([[799年]][[10月14日]]))は、[[奈良時代]]の[[貴族]]。[[氏姓]]は吉弥侯<ref>『[[続日本紀]]』天平神護元年3月条の賜姓記事に、[[カバネ|姓]]に関する表記が無く、無姓であったと考えられる。</ref>のち下毛野公。系譜は明らかでないが、[[芳賀郡]][[郡司|擬大領]]・吉弥侯豊麻呂の子とする系図がある<ref>中田憲信『皇胤志』</ref>。[[官位]]は[[外位|外]][[従五位|従五位下]]・芳賀郡少領。
 
== 下毛野朝臣根麻呂 ==
[[天平神護]]元年([[765年]])[[正六位|正六位上]]から外従五位下に昇叙され、同年根麻呂ら一族4名は下毛野公の姓を賜与される。[[宝亀]]5年([[774年]])3月[[孝謙天皇#称徳天皇|称徳天皇]]より[[出羽国|出羽]][[国司|介]]に任ぜられ、4月には[[下野国|下野]]介に転任した。
'''下毛野朝臣根麻呂'''(しもつけ の あそみ ねまろ、生没年不詳)は、[[奈良時代]]の[[貴族]]である。[[六国史]][[続日本紀]]に下毛野朝臣根麻呂と記されている人物である。
 
続日本紀の[[宝亀]]5年([[774年]])[[3月24日 (旧暦)]]の条によると、「[[孝謙天皇#称徳天皇|称徳天皇]]は同日、外従五位下の下毛野朝臣根麻呂を[[出羽国|出羽]][[国司|介]]に任ぜられた」とある。さらに同年[[4月24日 (旧暦)]]の条に「外従五位下の下毛野朝臣根麻呂を[[下野国|下野]]介とした」とある。
== 系譜 ==
 
== 下毛野公根麻呂 ==
'''下毛野 根麻呂'''(しもつけぬ の きみ ねまろ、[[神亀]]4年(727([[727]] - [[延暦]]18年[[9月11日 (旧暦)|9月11日]]([[799年]][[10月14日]]))は、[[奈良時代]]の[[貴族]]である[[氏姓]]は吉弥侯<ref>『[[続日本紀]]』[[天平神護]]元年([[764年]])[[3月16日 (旧暦)]]賜姓記事に、[[カバネ|姓越前国]][[足羽郡]]の住人で[[従五位下]]益田繩手関する表記が無く益田連の姓を与え外従五位下吉弥侯根麻呂等4人に下毛野公のであっを与え、外従五位下葛木毘登大床等7人に葛木宿祢の姓を与え。」考えら記さている人物である。</ref>これに拠ると、吉弥侯(そ後、下毛野公)根麻呂は越前国の住人である。系譜は明らかでないが、[[芳賀郡]][[郡司|擬大領]]・吉弥侯豊麻呂の子とする系図がある<ref>中田憲信『皇胤志』</ref>。[[天平神護]]元年([[765年]])[[正六位|正六位上]]から外従五位下に昇叙され、[[官位]]は[[外位|外]][[従五位|従五位下]]・芳賀郡少領。
 
=== 下毛野公系譜 ===
*父:吉弥侯豊麻呂
*母:不詳
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== 参考文献 ==
* [[続日本紀]]
* 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会,1986年(系譜セクションの出典)
 
== 脚注 ==