「フランソワ・ド・ヌフヴィル (ヴィルロワ公)」の版間の差分

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幼少時からフランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]に付き従い軍歴を重ね、[[1693年]]に元帥に任命、[[1695年]]に死去した[[フランソワ・アンリ・ド・モンモランシー (リュクサンブール公)|リュクサンブール公]]の後を受けて[[大同盟戦争]]における[[南ネーデルラント]]戦線を担当した。[[ブリュッセル]]包囲を敢行して落とそうと図り、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]率いる同盟軍に包囲された[[ナミュール]]の救援に向かったが、いずれも果たせずに終わった。ブリュッセル包囲時に広場の[[グラン=プラス (ブリュッセル)|グラン=プラス]]がフランス軍の砲撃で被害に遭っている。
 
[[1701年]]、[[スペイン継承戦争]]が勃発すると[[ニコラ・カティナ]]に代わって[[イタリア]]戦線に派遣されたが、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の将軍[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]に[[キアーリの戦い]]で敗北、翌[[1702年]]の[[クレモナの戦い]]で捕虜となり、解放後は[[ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン|ヴァンドーム公]]と交替、ネーデルラント戦線へ送られ[[ルイ・フランソワ・ド・ブーフレール|ブーフレール]]に代わって[[イングランド王国|イングランド]]軍司令官[[マールバラ公]][[マールバラ公ジョン・チャーチル|ジョン・チャーチル]]と相対、[[アントウェルペン|アントワープ]]からナミュールまでの防衛線を固めた。しかし、[[1704年]]に入って[[ドイツ]]へ南下したマールバラ公を取り逃がした上、[[ブレンハイムの戦い]]で敗れたフランス軍の敗残兵を収容したものの同盟軍の勢いに圧倒され、ドイツ戦線の後退を余儀なくされた。
 
1705年にネーデルラントへ戻り引き続き防衛線を固め、翌[[1706年]]にルイ14世の指示を受けて進軍した。だが、[[ラミイの戦い]]でマールバラ公に大敗、防衛線を突破されたばかりかネーデルラント全土も制圧され、他の戦線にも悪影響を及ぼすまでになってしまった。この事態を受けたルイ14世によって更迭され、ヴァンドームに交替させられた。以後は出陣することなく廷臣として過ごし、[[1717年]]から[[1722年]]まで幼い[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の養育係を務めた。1730年に[[パリ]]で死去、長男のルイ・ニコラがヴィルロワ公位を継いだ。