「多古藩」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
4行目:
[[小田原の役]]後、[[関東地方|関東]]に入部した[[徳川家康]]は、下総国香取郡に[[保科正光]]を1万石で入れた。これが多胡藩の立藩である。[[関ヶ原の戦い]]後の[[慶長]]5年([[1600年]])11月、正光は[[信濃国|信州]][[高遠藩]]に移封となり、ここに多胡藩は廃藩となり、[[天領]]となった時期もあれば、他の[[大名]]の所領としても併合された時期もあった。
 
その後、[[寛永]]12年([[1635年]])11月に[[松平勝義]]は8000石を香取郡や[[上総国]]武射郡などで領した。その後、後を継いだ[[松平勝忠]]は弟に分与したこともあって7000石となったが、勝忠は[[延宝]]4年([[1676年]])6月に2000石を加増される。そして勝忠の後を継いだ[[松平勝以]](勝義の九男)は[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]])8月3日、[[大坂城]]番に転身したことから[[摂津国]]嶋上・鳩下両郡内において3000石を加増され、1万2000石の[[大名]]として諸侯に列し、ここに多胡藩が立藩した。第6代藩主・[[松平勝権]]は[[藩校]]を創設して藩士の文武奨励を図った。第7代藩主・[[久松勝行|松平勝行]]は[[嘉永]]2年([[1849年]])12月、預かっていた罪人の唐大通事・[[神代徳次郎]]に逃亡されたという失態から閉門処分の上、2000石の減封となった。[[幕末]]期、勝行は九十九里[[真忠組]]の反乱鎮圧で功を挙げた。[[戊辰戦争]]のとき、勝行は[[徳川氏]]との訣別をあらわすために勝行は松平姓を元の久松姓に戻した。勝行は翌年の[[版籍奉還]]で知藩事となったが、まもなく勝行は家督を[[久松勝慈]]に譲って隠居するした。[[明治]]4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]で多胡藩は廃藩となる。その後、[[多胡県]]、[[新治県]]を経て、千葉県に編入されたのであった。
 
== 歴代藩主 ==
55行目:
[[Category:下総国]]
[[Category:保科氏|藩]]
[[Category:久松松平氏|藩]]
[[Category:千葉県の歴史]]
[[Category:多古町]]
 
[[en:Tako Domain]]