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'''雲林院'''(うりんいん)は、かつて[[京都]][[大徳寺]]の南(現在の[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]紫野)にあった[[天台宗]]の大寺。
'''雲林院'''(うりんいん)は、かつて[[京都]][[大徳寺]]の南(現在の[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]紫野)にあった[[天台宗]]の大寺。もとは、[[淳和天皇]]の[[離宮]][[紫野院]]であったが、その後[[仁明天皇]]の離宮となり、やがて皇子[[常康親王]]に賜った。[[869年]](貞観11年)親王が亡くなった後、僧正[[遍昭]]に譲られ、[[884年]](元慶8年)、遍昭はこれを[[元慶寺]]の別院とし、[[年分度者]]3人を与えられて天台教学を専攻させた。その後、[[鎌倉時代]]までは天台宗の官寺として栄え、菩提講・桜花・[[紅葉]]で有名であった。雲林院は、「[[今昔物語集]]」、「[[大鏡]]」の舞台となり、また「[[古今和歌集]]」以下の歌集で歌の名所。[[在原業平]]が「[[伊勢物語]]」の筋を夢で語る[[謡曲]]「雲林院」にもなったが、時とともに寺運が衰えた。
 
'''雲林院'''(うりんいん)は、かつて[[京都]][[大徳寺]]の南(現在の[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]紫野)にあった[[天台宗]]の大寺。もとは、[[淳和天皇]]の[[離宮]][[紫野院]]であったが、その後[[仁明天皇]]の離宮となり、やがて皇子[[常康親王]]に賜った。[[869年]](貞観11年)親王が亡くなった後、僧正[[遍昭]]に譲られ、[[884年]](元慶8年)、遍昭はこれを花山[[元慶寺]]の別院とし、[[年分度者]]3人を与えられて天台教学を専攻させた。その後、[[鎌倉時代]]までは天台宗の官寺として栄え、菩提講・桜花・[[紅葉]]で有名であった。雲林院は、「[[今昔物語集]]」、「[[大鏡]]」の舞台となり、また「[[古今和歌集]]」以下の歌集で歌の名所であった。[[在原業平]]が「[[伊勢物語]]」の筋を夢で語る[[謡曲]]「雲林院」にもなったが、時とともに寺運が衰えた。
[[1324年]](正中元年)復興され大徳寺に付属の寺となり、以後[[禅宗]]の寺となったが、[[応仁の乱]]で廃絶した。
 
[[1324年]](正中元年)復興され大徳寺付属の寺となり、以後[[禅宗]]の寺となったが、[[応仁の乱]](1467年-1477年)の兵火により廃絶してしまった。
 
現在は、地名として'''雲林院'''の名が残り、また堂宇としてわずかに観音堂が残るのみである。