「松平清昌」の版間の差分
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'''松平 清昌'''(まつだいら きよまさ、[[文禄]]2年([[1593年]]) - [[承応]]4年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]([[1655年]][[4月24日]]))は、[[江戸時代]]
== 生涯 ==
[[慶長]]17年([[1612年]])、[[江戸城]]の[[書院番]]士だったが、父の死後間もない中、嫡兄・忠清まで卒去した。[[三河吉田藩]]の竹谷松平家は無嗣除封となる。だが、竹谷松平家の
亡き父・家清には弟・清定が
家名は存続したものの、3万石が5000石と6分の1にまで低下
[[大坂の役]]へは、冬夏共に36騎を率いて参戦した。[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])7月、[[徳川秀忠|秀忠]]将軍の上洛に随従した。父、兄以来続く玄蕃頭に叙任される。翌月8月には宮中関係各者への御礼を済ませている。一方で武芸にも励んでいた清昌は、弓の印可目録4巻を授けられている。
[[寛永]]3年([[1626年]])、[[大御所 (江戸時代)|大御所]]・秀忠の再上洛に供奉した。
[[二条城]]での宴のために[[後水尾天皇|後水尾帝]]と[[徳川和子|中宮和子]]([[徳川家光|家光]]の妹)が御移りになられるために[[9月6日_(旧暦)|9月6日]]、お渡りになられる前に女官ら関係者3000人による衣装など必需品が運び込まれてから、ようやく中宮の御車が出立。その御車の直前を進む騎衛の諸大夫20人がいたが、清昌もその中の1人だった。衣装は束帯姿でそのまま騎馬にまたがり、更にそれぞれが長刀持ち、馬副い、傘持ちを従えていたといわれる。この20人は石高こそ高くは無かったが、[[久松氏|久松松平家]]の者、[[水野氏|水野家]]の者といった将軍家との縁が深い家の者で固められていた。
寛永9年([[1632年]])、大御所・秀忠死去による遺金として銀3枚を拝領した。
寛永10年([[1633年]])、同7年に務めて以来2度目の[[大坂城]]の勤番。ちなみにこの時の同役は、[[井上正利]]([[遠江国|遠州]][[横須賀藩]]4万7000石)、[[大関高増 (江戸時代)|大関高増]]([[下野国|野州]][[黒羽藩]]2万石)、[[西郷正員]]([[安房国|房州]][[東条藩]]1万石)の3人であった。これから
寛永13年([[1636年]])、大坪流馬術の秘伝目録を授かる。
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[[浅野氏|浅野家]]と縁が有り、忠清・清昌らの姉妹が[[浅野長重]]へ嫁いでいることによる。その姉妹と[[浅野長重|長重]]の間の男子が浅野長直であったが、嗣子がしばらく居なかった。そこで家格こそ低下しながら清昌の人品の高さに期待がかけられ、清昌の子の1人を長直の嗣子に望まれた(後の浅野長賢)。
ところが長賢の入嗣から、しばらくすると浅野長直に実子が誕生
== 関連項目 ==
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{{DEFAULTSORT:まつたいら きよまさ}}
[[Category:竹谷松平氏|
[[Category:江戸幕府旗本]]
[[Category:1593年生]]
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