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[[1851年]]には、豪商[[銭屋五兵衛]]が私財を投じて[[干拓]]を試みた。しかし埋め立ての土砂を固めるのに[[石灰]]を使用したことを[[毒物]]を流したと曲解され、翌年、付近で発生した[[伝染病]]の原因がその毒物で汚染された魚を食べたからと噂された。このため五兵衛は投獄され、獄中死したため事業は中断された。
 
[[第二次世界大戦]]後、[[内灘闘争|内灘試射場問題]]で内灘村(現在の内灘町)は見返りとして河北潟の[[干拓]]事業を要求。[[1963年]]から[[農林水産省]]による国営事業として行われ、約1100haの農地が[[1985年]]に完成した。しかしすでに[[農業]]は既に[[減反政策]]の時代に移っており、このため現在も未入植地が多く残る。
 
この干拓と埋め立てにより豪雨により潟にたまった水を海へと放出する防潮[[水門]]をはじめ数台のポンプ施設、[[堤防]]、[[淡水湖]]と[[汽水湖]]を分ける水門など数々の施設が出来た。