「カルロヴィッツ条約」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
MystBot (会話 | 投稿記録)
m r2.7.1) (ロボットによる 追加: ar:معاهدة كارلوڤچة
編集の要約なし
1行目:
'''カルロヴィッツ条約'''(カルロヴィッツじょうやく)は、[[1699年]]に[[オスマン帝国]]と[[ヨーロッパ]]諸国との間に結ばれた[[平和条約|講和条約]]。この[[条約]]で、オスマン帝国は初めてヨーロッパ諸国に領土を割譲し、また[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]は[[三十年戦争]]以来の長期の低迷を脱して中ヨーロッパへの拡大を開始する契機を得た。
 
なお、この時のオスマン帝国の交戦国のうち[[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]はカルロヴィッツ条約には参加せず、翌[[1700年]]に個別にコンスタンチノープル条約(イスタンブル条約)を結んでいるが、本項で併せて取り扱う。コンスタンチノープル条約は、ロシアにとっては[[黒海]]・[[バルカン半島]]を目指す[[南下政策]]の第一歩となった条約である。
6行目:
[[17世紀]]後半、オスマン帝国は[[キョプリュリュ家]]の長期政権のもとでオーストリア、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]、[[ポーランド王国|ポーランド]]、ロシアの諸国と相次いで戦い、[[ヨーロッパ]]において史上最大の版図を実現していた。キョプリュリュ家の政権を継承した[[カラ・ムスタファ・パシャ]]はこの成功の総決算として[[1683年]]、オーストリア領の奥深く侵攻し、[[第二次ウィーン包囲]]を敢行するが、ポーランドを中心とする中央ヨーロッパ諸国連合軍の反抗を受けて惨憺たる失敗に終わった。カラ・ムスタファは[[ベオグラード]]に撤退し、敗軍の立て直しを計ろうとしたが、その矢先に政敵の讒言を受けた[[メフメト4世]]の[[勅令]]によって同地で処刑され、オスマン軍は有力な指揮官を失うこととなった。
 
一方、この包囲戦を契機に[[中央ヨーロッパ]]の諸国は[[教皇|ローマ教皇]][[インノケンティウス11世 (ローマ教皇)|インノケンティウス11世]]の呼びかけを受けて大同団結し、[[教皇領]]、オーストリア、ポーランド、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]からなる[[神聖同盟_(1684年)|神聖同盟]]を結成、[[イスラム王朝|イスラム勢力]]の[[キリスト教]]世界からの追放を旗印に、オスマン帝国との長期戦に突入した([[大トルコ戦争]])のちは、ポーランドの誘いにより、[[ウクライナ]]([[ポジーリャ|ポドリア]])の[[領有]]をめぐってオスマン帝国と潜在的敵対関係にあった非カトリックのロシアも参入した。敗戦及びカラ・ムスタファの処刑に伴う混乱に加えて、多正面での戦闘を余儀なくされたオスマン帝国は各方面で領土を奪われ、ヨーロッパにおける勢力の大幅な後退を余儀なくされた。
 
敗戦及びカラ・ムスタファの処刑に伴う混乱に加えて、多正面での戦闘を余儀なくされたオスマン帝国は各方面で領土を奪われ、ヨーロッパにおける勢力の大幅な後退を余儀なくされた。
 
戦争の後期には戦線が膠着し、末期にはほとんど戦闘が行われないまま講和の交渉が行われた。交渉は難航したが、オスマン帝国は、ロシアを除く各国と1699年に[[ハンガリー王国|ハンガリー]]南部の[[スレムスキ・カルロヴツィ|カルロヴィッツ]]で講和条約を締結、ロシアとは翌1700年に首都[[イスタンブル]]でコンスタンチノープル条約を締結し、戦争を終結させた。