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build_y = 不明|
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rulers = 東条吉良氏、東条松平氏|
reject_y = 天正9年(1581年)|
remains = 曲輪、土塁、堀|
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'''東条城'''(とうじょうじょう)は、[[愛知県]][[西尾市]][[吉良町]]駮馬字城山にあった、中世の[[平山城]]。東条[[吉良氏]]・[[東条松平家|東条松平氏]]の居城<ref>[[大久保忠教]]の『[[三河物語]]』では「東祥」、成島司直の『[[徳川実紀|東照宮御実紀]]』巻二では「東條」と表記。</ref>
 
== 沿革 ==
築城年代は不明。一説によると、[[承久]]3年([[1221年]])に、[[足利義氏 (足利家3代目当主)|足利義氏]]が築き、3男[[吉良義継]]を入れる。以後、義継を祖とする[[吉良氏#奥州(武蔵)吉良氏|前期東条吉良氏]]と[[吉良尊義]]を祖とする[[吉良氏#三河吉良氏|後期東条吉良氏]]の居城となった。
 
城主の吉良氏は、戦国時代の[[吉良義昭|義昭]]の時に[[永禄]]4年・同6年([[1563年]])と[[松平氏]]の攻撃に相次いで敗れて退城<ref>下記参考文献の1、『三河物語』では、今川氏から独立後の[[徳川家康]]は、西三河統一戦で今川方の[[西尾城]]・東条城に攻め掛けた →「但シ、西尾之城と'''東祥之城'''ハ駿河方ナレバ、切々之御働キ成…」、また三河一向一揆の項目では、一揆勢が敗北すると城主の吉良義諦(義昭)はどうすることもできず家康に謝罪して東条城を出たとする。→「然間、義諦モナラセラレ給ハズ御侘事被成而、東祥之城ヲ下リサセ給得供…」。</ref>、以後は東条松平家の居城となる。[[天正]]9年(1581年)城主[[松平家忠 (東条松平家)|松平家忠]](甚太郎)が無嗣で病没し、[[徳川家康]]4男・[[松平忠吉]]が家忠養子となるが東条城には入らず、翌天正10年(1582年)には忠吉が[[駿河国]][[三枚橋城|沼津城主]]となり東条城は廃城となった。
 
== 脚注 ==
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<references/>
 
== 参考文献 ==
# 大久保忠教(原著)日本戦史会編 『[[三河物語]]』/日本戦史材料、日本戦史会、1890年。
 
 
== 関連項目 ==
* [[東条松平家日本の城一覧]]
* [[松平康親]]
* [[善明堤の戦い]]
* [[藤波畷の戦い]]
* [[三河一向一揆]]
* 前期東条吉良氏→[[吉良氏#奥州(武蔵)吉良氏|奥州(武蔵)吉良氏]]
* 後期東条吉良氏→[[吉良氏#三河吉良氏|三河吉良氏]](東条吉良氏の項)
* [[西尾城]]
* [[日本の城一覧]]
 
== 外部リンク ==
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[[Category:西尾市]]
[[Category:吉良氏|城とうしようしよう]]
[[Category:東条松平氏|城とうしようしよう]]
 
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