「アパフィ・ミハーイ2世」の版間の差分

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[[ファイル:Apafi MihályII.jpg|right|thumb|200px|アパフィ・ミハーイ2世]]
'''アパフィ・ミハーイ2世'''(II. Apafi Mihály, [[1676年]][[10月13日]] - [[1713年]][[2月1日]])は、[[ハンガリー人]]の[[トランシルヴァニア公国|トランシルヴァニア公]](在位:[[1681年]] - [[1692年]])。トランシルヴァニア公[[アパフィ・ミハーイ1世]]と、その妻ボルネミッサ・アンナ([[:hu:Bornemissza Anna]])の間に生まれた息子。
 
ミハーイ2世は1681年より父の共同統治者となり、[[オスマン帝国]]より公位の相続者として認められた。しかし父ミハーイ1世が死ぬと、オスマン帝国は反ハプスブルク派の[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王位要求者だった[[テケリ・イムレ]]をトランシルヴァニア公とした。テケイは[[1690年]]頃に短期間トランシルヴァニアを統治したが、自分の配下にある将軍たちが[[ハプスブルク君主国|ハプオーブルク帝国トリア]]軍に敗れると公国を離れた。
 
その間、ミハーイ2世の側近たちは[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]と協定を結び、皇帝から公国の行政、経済、文化における独立と宗教の自由を認められた。皇帝はさらにミハーイ2世をトランシルヴァニア公と認め、公国の議会は1691年、幼いミハーイが成人するまで国政を司る行政委員会を設置した。委員会には、バーンフィ・ジェルジが最高責任者として、ベトレン・ミクローシュが大法官として、ベトレン・ゲルゲイが軍司令官として、ハレル・ヤーノシュが財務長官としてそれぞれ席を占めた。予想されるトルコ人の攻撃と、トランシルヴァニアの自治権を制限しようとするオーストリアの計画から公国を守るため、ミハーイは大法官の助言を受けて、同じ[[プロテスタント]]君主であるイングランド王[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]と[[ブランデンブルク選帝侯]][[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ3世]]を自らの保護者である、と宣言した。
 
予想されるトルコ人の攻撃と、トランシルヴァニアの自治権を制限しようとするオーストリアの計画から公国を守るため、ミハーイ2世は大法官の助言を受けて、同じ[[プロテスタント]]君主である[[イングランド王国|イングランド]]王兼[[オランダ総督]][[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]と[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]][[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ3世]]を自らの保護者であると宣言した。
[[イングランド]]と[[ネーデルラント連邦共和国|ネーデルラント]]は皇帝レオポルト1世に圧力をかけてトルコとの戦争を終わらせ、和平条約でトランシルヴァニアの自治権を尊重する内容を盛り込むことを提案した。すなわち、トランシルヴァニアは、ハプスブルク帝国とオスマン帝国の共同宗主権と覇権国の支配の下でミハーイ公に統治されるのが望ましいとしたのである。こうした提案を踏まえ、1698年まで和平条約締結のための交渉が続けられた。
 
[[イングランド]]と[[ネーデルラント連邦共和国|ネーデルラント]]は皇帝レオポルト1世に圧力をかけてトルコとの戦争([[大トルコ戦争]])を終わらせ、和平条約でトランシルヴァニアの自治権を尊重する内容を盛り込むことを提案した。すなわち、トランシルヴァニアは、ハプスブルク帝国とオスマン帝国の共同宗主権と覇権国の支配の下でミハーイ2世に統治されるのが望ましいとしたのである。こうした提案を踏まえ、[[1698年]]まで和平条約締結のための交渉が続けられた。
しかし。ハプスブルク帝国はイングランドとネーデルラントに保護されたトランシルヴァニアが、自らの王朝国家の脅威になりかねないことを認識していた。和平交渉が進展していく一方で、ハプスブルク帝国政府はトランシルヴァニア公国における自らの地位を強めていった。1692年、ミハーイは彼の結婚に関して起きた紛争について釈明するべく[[ウィーン]]に召喚され、そのまま抑留されてレオポルト1世にトランシルヴァニアの統治権を譲ることを強要された。トランシルヴァニアは1695年に8000人からなるオーストリアの軍勢によって占領され、1696年には軍司令官による支配体制がしかれた。
 
しかしハプスブルク帝国はイングランドとネーデルラントに保護されたトランシルヴァニアが、自らの王朝国家の脅威になりかねないことを認識していた。和平交渉が進展していく一方で、ハプスブルク帝国政府はトランシルヴァニア公国における自らの地位を強めていった。1692年、ミハーイ2世は彼の結婚に関して起きた紛争について釈明するべく[[ウィーン]]に召喚され、そのまま抑留されてレオポルト1世にトランシルヴァニアの統治権を譲ることを強要された。トランシルヴァニアは[[1695年]]に8000人からなるオーストリアの軍勢によって占領され、[[1696年]]には軍司令官による支配体制がしかれた。[[1699年]]の[[カルロヴィッツ条約]]でトランシルヴァニアはハプスブルク家が領有することが正式に認められ、ハプスブルク帝国の一部を形成した。
ミハーイは皇帝から年金を与えられてウィーンに居を定め、1713年に36歳で死んだ。
 
ミハーイ2世は皇帝から年金を与えられてウィーンに居を定め、1713年に36歳で死んだ。
 
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