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==経歴==
[[寛永]]12年([[1635年]])、養父と同じ[[佐賀藩]]請役となる。[[1635]]2代藩主・鍋島勝茂の嫡男、[[鍋島忠直]]が早世した、遺児・[[鍋島光茂]]が4歳と幼かった。そこで勝茂は、忠直の弟で、支藩の[[蓮池藩]]主となっていた[[鍋島直澄]]を後継にしようとした。茂辰はこれに反対し、正統な後継者である光茂に継がせるよう主張した。その結果、[[1657年]]に光茂が第32代藩主となった。
 
寛永14年([[1637年]])、[[島原の乱]]が起こると、[[島原藩]]は鎮圧できずに佐賀藩などに救援を求められたが、当初は[[諫早茂敬]]・[[鍋島茂綱]]と共に、「[[公儀]]([[江戸幕府]])の命令無しに出陣はできない」と拒否した。その後、幕府の命令を待って出陣。この時、[[後藤遊仙]]が現[[小城市]]で開山した熊野山大権現([[熊野権現]]社)で、遊仙に武運長久を祈願させている。乱の鎮圧後、寛永17年([[1940年]])頃に、配下の戦死者99名を弔うため、通玄院(現[[多久市]]、[[臨済宗]])を建立。99名の実名を刻んだ位牌や、島原の乱戦死者供養塔が現存している<ref>多久市 [http://www.city.taku.lg.jp/sitemanage/contents/attach/3039/kankoushinkoukeikakuikkatsu.pdf 多久市観光振興計画]</ref>。
 
[[正保]]3年([[1646年]])、返済不能な私借銀を作ったとして罷免され、[[武雄]]領主の[[鍋島茂綱]]が後任とされたが、家老職であり続けた。
 
==脚注==
<references/>
 
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