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Chichiii (会話 | 投稿記録)
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[[大日本帝国陸軍]]の[[中国大陸]]撤退を条件に、[[満州国]]の承認、日米通商関係の正常化などの交渉が、[[野村吉三郎]]駐米大使と[[コーデル・ハル]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]との間で始められていた。
 
しかし、訪独の帰途の際、[[日ソ中立条約]]を締結した[[松岡洋右]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]は、対中政策の全面承認を主張し交渉は難航した。その結果1941年7月、日本軍はフランス政府承諾を得て[[仏印進駐|南部仏印進駐]]した。同月、ルーズベルト大統領アメリカ側在米日本資産の凍結などの日本に対する経済制裁硬化させ、交渉行った<ref name=sankei20111207/>。[[ハーバート・フーバー]]前大統領決裂しこれをドイツとの戦争に参戦するめに日本を戦争に引きずり込むためのものであったと批判している<ref name=sankei20111207/>
 
その後、交渉は再開し日本は[[近衛文麿]]総理大臣とアメリカ大統領の直接会談を申し込んだ極秘で模索された破談し、[[1941年]]11月26日[[ハ・ノズベル]]が手渡さ大統領は受け入なかった。戦後再び交渉マッカーサー元帥決裂し、同年[[12月7日]](ハワイ現地時間。日本時間[[12月8日]])には[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])の勃発に至会談を行うべきであったと語っている<ref name=sankei20111207>{{cite web
| url = http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n1.htm
| title = 「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判
| author= [[佐々木類]] 
| publisher = [[産経新聞]]
| date = 2011/12/07
| accessdate = 2011/12/07
}}</ref>、[[1941年]]11月26日[[ハル・ノート]]が手渡され、再び交渉は決裂し、同年[[12月7日]](ハワイ現地時間。日本時間[[12月8日]])には[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])の勃発に至った。
 
== 年表 ==