「河内山宗春」の版間の差分

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==死後の脚色==
河内山は取調中に牢死したため申し渡し書(判決書)も残っておらず、具体的にどのような不正を犯して捕らえられたのかは分からない。しかしそのことがかえって爛熟した[[化政文化]]を謳歌する江戸庶民の想像をかきたて、自由奔放に悪事を重ねつつも権力者には反抗し、弱きを助け強きをくじくという[[義賊]]的な側面が、本人の死後に増幅していくこととなった。実録としは『河内山実伝』<!--(ここでは名は宗心)-->があり、[[明治]]初年には[[松林伯圓|二代目松林伯圓]]が講談『[[天保六花撰]]』(てんぽう ろっかせん)としてこれをまとめた。ここでは宗俊は表坊主ではなく、[[御数寄屋坊主]](茶事や茶器の管理を行う軽輩)となっており、[[松江藩]](松平家)への乗り込みと騙りが目玉になっている。さらに明治7年(1874年)には[[河竹黙阿弥|二代目河竹新七(黙阿弥)]]がこれをさらに脚色した歌舞伎の『雲上野三衣策前』(くものうえの さんえの さくまえ)が初演。さらに明治14年(1881年)3月にはやはり黙阿弥によってこれが『[[天衣紛上野初花]]』(くもにまごう うえのの はつはな)に改作されて、[[東京]][[新富座]]で初演。ここで[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]がつとめた型が現在に伝わっている。
 
==映像作品==