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== 来歴・人物、 ==
1995年、[[福留孝介]]の外れドラフト1位で[[読売ジャイアンツ|巨人]]に入団(7球団が競合した福留の外れ1位として巨人と中日が原を指名したが、原も外してしまった中日は[[荒木雅博]]を指名)。選手在籍時の監督でもある[[原辰徳]]とは血縁上の繋がりはない
 
強肩強打の選手として早い時期からファームの主軸として2軍打者は活躍していあったが、ファームの主軸ゆえに守備面での起用法位置が一定せず(ポジションは捕手・[[内野手]]・たまに外野も)、[[村田真一]]に替わる正捕手候補は[[村田善則]]や[[小田幸平]]が起用されることが多く、2軍暮らしが長く続いた。その後鳴り物入りで入団した[[阿部慎之助]]の打撃力の向上もあり、8年目の2003年に打撃力のある控え捕手として期待され初めて1軍に昇格。プロ入り初本塁打は、東京ドームの看板直撃弾であったが、{{いつ|date=2011年12月}}[[すぽると]]で飛ぶボール問題を特集したとき、パワーヒッターではない選手の初本塁打がここまで飛ぶのかと採り上げられた。捕手以外にも内外野を守り(主に[[一塁手|一塁]])、右の控えとして期待に応えた。
 
*2003年横浜戦で受けた生涯唯一の死球はサヨナラとなる押し出し死球だった。
 
2004年以降は、1軍の捕手が2人体制となり、ファームでは不動の4番として活躍する一方、一・三塁手としての起用が多くなる。
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2006年前年まで2番手の捕手として起用された小田幸平が[[中日ドラゴンズ]]に移籍したことや、2003年1軍に昇格させた[[原辰徳]]が監督に復帰したことが追い風になると思われたが、[[星孝典]]や[[加藤健]]、新入団の[[實松一成]]などの台頭により、1軍でも打撃面を期待され指名打者や内野手としての起用がメインとなった。
 
2006年10月2日球団より戦力外通告を受け退団。その後参加した[[12球団合同トライアウト]]でホームランを放っに参加したものの、獲得に手を挙げた採用する球団はかった。
 
現在は[[早稲田大学]]に在学しながら、[[後藤孝志]]と立ち上げた野球教室「[http://www.tokyo-guts.jp TOKYO GUTS]」でコーチをしている。
 
現在は[[早稲田大学]]に在学しながら、[[後藤孝志]]と立ち上げた野球教室「[http://www.tokyo-guts.jp TOKYO GUTS]」でコーチをしている[http://www.tokyo-guts.jp]
== エピソード ==
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2011年8月}}
*2軍で[[三塁手|三塁]]を守り、4番に座ったため「4番・サード・原」というかつての[[原辰徳]]を彷彿させるアナウンスが実現したことが[[スポーツ報知]]のジャイアンツ日記で紹介された。2人は東海大相模高校の先輩後輩でもある。
*原辰徳が引退した1995年に、[[福留孝介]]の7球団競合に敗れた巨人が更に[[中日ドラゴンズ]]との競合の末に選択権を引き当て、ドラフト1位で[[読売ジャイアンツ]]へ入団した選手である。
*選手在籍時の監督でもある原とは血縁上の繋がりはない。
*プロ初[[本塁打]](ツーランホームラン)を放った際、ランナーは原とドラフト同期の仁志であり、その仁志とともに出迎えた次打者もまたドラフト同期の清水であった。'''同期のドラフト上位3名がホームベース付近に集う'''という珍しい出来事が起きた。その後の[[円谷英俊]]のプロ初本塁打の時もドラフト上位ではないが同じ出来事が起きている。
*2003年横浜戦で受けた生涯唯一の死球はサヨナラとなる押し出し死球だった。
 
== 詳細情報 ==